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最終更新日:2005年3月10日
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追 悼・照屋林助
[ 追悼・照屋林助(中川敬)追悼・照屋林助(藤田正) ]

中川敬(ソウル・フラワー・ユニオン)
てるりんさんが亡くなっちゃいました。齢75。
1993年、ボガンボスのどんと、ちほさんらと、コザの「てるりん館」に 「ワタブーショー」を見に行き、ステージの上から、「ステージの上より客席の 方がハデですね〜」とてるりん。人柄にくるまれた、毒のある笑いと唄は、 沖縄、ひいては東アジアの至宝でした。生涯、ネイティヴに現役を貫いた本物の 芸人、てるりん。
ホンマ、せいぐわー(登川誠仁)には長生きしてもらわなアカン。
てるりんさん、継承すべき沢山の宝、ありがとう! 合掌!
 「たくさんの人が戦争で死んだのに皆さんは生き残っている。生き残った人が 命の祝い(ヌチぬスージ)をしなければ、死んだ人に申し訳がない」(コザ独立国大統領・照屋林助)
(2005年3月10日記)


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藤田正(音楽ジャーナリスト)
 林助さんは私にとっては、音楽とは何か、沖縄とは何かを約15年の歳月の中で、 じっくりと教えてくださった方でした。私は、この方の頭の貯蔵庫から、その膨大な蔵書から、レコード棚から何から、片っ端に盗みまくって何冊も沖縄本や音楽書を書きました。
 私はそれを悪いことだとは一度も思ったことはありません。私は確信犯ですし、林助さんもそれを充分ご存じだった。
 だが盗めば盗むほどに、私は林助さんが恐くなりました。なぜオレに、 こんなにも無防備に与え続けてくれるのか、という疑問です。そしてこちらの貯蔵庫が増 すほどに、林助さんというガジュマルの木のデカさが、少しずつ見えてくるのでした。
晩年、氏と本や録音の構想を練るために、一日何時間も二人で書斎にこもっていました。が、私の本心は「恐かった」です。

 林助さんが動けなくなってからも、永田町の大臣に代理として賞状をもらいに 行ったり(別に林助さんは欲しいとも何とも言いませんでしたけど)、東京の配下 としてお手伝いをさせてもらいました。
 それもこれも、こんな方と、オレは自分の人生の中でもはや二度と出会うことはないという確信があったからです。

 数十年来の親友であり、ライバルでもあった登川誠仁さんは、今どうしているんだろう? と思うと、つらいです。先輩の嘉手苅林昌さんが亡くなった時も、誠仁さんはずいぶん落ち込んでらっしゃった(先ほど登川さんの長男氏から電話があって、今回のことでテレビ取材やらなにやらでオヤジの家は大変のことになってる、と言ってました)。

登川さんには元気でいてもらいたい。

 沖縄の真の意味での宝が、また一つ失われたわけです。戦後沖縄音楽は、 「カディカル-てるりん-誠小」という、いわば「コザ派・魔のトライアングル」 によってその基礎が出来上がったわけですが、この人たちの存在が我々に教えるのは、ヒット を飛ばすなり、歌が上手いなりといったことは無縁のところに音楽や芸能の根(心) がある、ということです。

私はその根の一端を、林助さんに「ここだよ」と教えていただいたと思っています。
(2005年3月10日記)

(藤田正編集インターネット・マガジン『BEATS 21』
http://www.beats21.com/cover.html


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