| 中川敬(ソウル・フラワー・ユニオン) |
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おいおい、死ぬなやオッサン。
いきなり入った訃報の連絡。
二週間程前に、例によって、ヘベレケの大原から訳の分からん留守番電話。確かに久々ではあった。「久しぶりにソウル・フラワー・ユニオンのライヴに行くから、会場に(招待で)入れろ」という箇所はなんとか聞き取れた、というぐらいの酩酊状態。
ここ数年のヤツはいつもそんな調子で、モノノケ・サミットのライヴの当日にフラッと現れては、「なあ、(トロンボーン)ちょっと吹かせてや」とゲリラ・セッション。ヘベレケの音塊の糞をステージに落していくのであった。
「オッサン、ちゃんとプレイせんかい!」「これでいいのだ」。こちらが何を言おうが、アル中の耳に念仏。
それでも憎めないのが大原裕であった。
最初の出会いは『エレクトロ・アジール・バップ』のレコーディング・セッション(1996年4月)。梅津(和時)さんが、ホーンのセクションにヤツを連れて来たのであった。酒の匂いをプンプンさせながら、俺の当時の神戸の話し(ソウル・フラワー・モノノケ・サミットの活動)に
俄然興味を示し、俺もモノノケ・サミットに参加させてくれ、ということになったのだと記憶している。
モノノケ・サミットのステージ上で、レパートリー中約半数の自分が知らない曲(吹けない曲)の時に、アグラをかいて煙草をふかしたりして、よくヒデ坊に蹴られてたな。
そんなこんなで、当時は三か月に一度ぐらい、モノノケ・サミットの神戸や西宮の出前ライヴに神出鬼没、フラッと(正にフラッと)現れたものだった。
こんな噂を聞いたこともある。京都のJAZZ畑で、誰かがソウル・フラワーの悪口を言ったところ、怒った大原裕が「おまえに音楽が分かるか!あいつら(ソウル・フラワー)の方がJAZZを分かっとるわ!」と大喧嘩、大暴れしたという話し(俺らにJAZZが「分かってる」かどうかは疑わしいが)。
ヤツのリーダーバンド「 LIVE ! LAUGH !」がレコーディング(ライヴ録音)する時にも、「おまえの唄がいるんだよ。おまえの唄が必要なんだよ。歌ってくれよ〜」と、ふてぶてしいのか、人懐っこいのか良く分からない、例の
調子で頼まれたのであった。こっちも断れないよな、あんたが自分のバンドをやっと本気でやるっていうんやから。
とにかく、俺にとっての大原裕は、元サイツの大原裕でも、JAZZ誌の人気投票(トロンボーン部門)常連の大原裕でもない。ただのアル中、時にエロおやじ、トロンボーンも吹くには吹く。でも何故かいつも「戦友」の大原裕であった。
以下が、俺とヤツのレコーディング・セッションの記録。
- 「満月の夕~96 FROZEN BRASS VERSION」
- 「フォギー・デュー・フローズン・ブラス」
- 「霧の滴」
- 「進軍ラッパエレジー」
- 「宇宙フーテン・スイング」
- 「さよならだけの路地裏」
- 「ちっちゃな時から」
- 「戦火のかなた」
- 「青天井のクラウン」(以上、ソウル・フラワー・ユニオン)
- 「インターナショナル」(ソウル・フラワー・モノノケ・サミット)
- 「道頓堀行進曲」( LIVE ! LAUGH !)※
- 「インターナショナル」( LIVE ! LAUGH !)※
- ※アルバム『風ヲキッテ進メ』LIVE ! LAUGH !(オフ・ノート ON-34)
俺は LIVE ! LAUGH ! の CD帯にこう書いた。
「大原裕は日本音楽の言い淀みの中で、ハッキリとオフ・ノートを出せる大バカ者だ」
おっさん、あの世でも酒樽に顔突っ込んでんねんやろなあ。でも、たまにはあの殺人トロンボーンを天空に響かせてくれ。「言い淀み」に NO !
や。酔っぱらって、からんで、道端にころがって、「これでいいのだ」、また明日はセッションや。
ありがとう!数々のオモロイ想い出を!
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極めて個人的な大原裕へのL!L!的追悼 樋野展子(ソウル・フラワー・モノノケ・サミット、リブ・ラフ/サックス) |
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大原裕が死んでしまった。
しかし実感がわかない。酒を手に、たまに楽器を忘れたりしつつ、ライブハウスの扉を開けてのっそり入ってくるのではという、恐怖に近いリアルな光景を思い描くことは容易い。深夜、思い出したように電話をかけてくる。勿論酔っ払ってて、延々しゃべる。
けれど、周りの人間があれだけ、しかも時として命がけで止めようとしてきた酒を終わりまで離すことなく、その人はキラキラのトロンボーンと一緒にどっかへ逝ってしまった。
私はそのへんに生える雑草のようなものだ。そうでありたい、と思う。肥料とか、温度や湿度の管理に依存するような花ではない。華やかな花が咲くわけではないけれど、踏まれても大地に根をはって、のびのびと緑色に伸び、たくましく生きて笑う、雑草。
大原さんはそんな若い雑草に“それでいいんだ、堂々とやれ”と正面切ってエールを送ってくれた人だった。
折角なので、私と大原さんの関わり処であるLIVE!LAUGH!のことを少し書こうと思う。大原裕がそこで何を作りたかったのか一端でも感じて頂いて、ささやかではあるが供養にでもなればと思う。
映画『アンダーグラウンド(95’作品)』中のジプシーブラス“ファンファーレ・チォカリーア”に端を発し、その音楽の根に流れるキモに痛く感銘した大原さんは96年、LIVE!LAUGH!(以下L!L!)を結成した。一見普通のおっさん達が、ブラスを持って吹き出すととんでもなく力のある音楽を生み出す、あれだ。同じことはできないかもしれないが、L!L!は、世界中にある“よい”音楽を、ブラスでたたき出すことをコンセプトに立ち上げたバンドであった。構成は総勢20名あまりの管吹きとリズム屋(ドラマー、パーカショニスト)。
以来、2001年の解散まで、(それ以降もだが)大原裕と我々は己の魂の性根に流れる音楽によって、関わり続けることとなった。我々は本気だった。雑草の束がものすごい力を持って動き出した。
ところで、「雑草」とは何も音楽家として花開くことを否定した言葉ではない。また、“雑草”と表現するには失礼にあたるような先輩ミュージシャンも共に演奏してきたが、どうか言葉の意をくんでまずご容赦いただきたい。
人間に根ざした、人間の息で繰り広げるブラスの音の塊(かたまり)が土臭い説得力を持って語る凄さ、SwingやBopの世界だけでない、世界の血や地に根ざした音楽の力を伝えること、それを実際に演ること、できること。それが、L!L!の“音楽”としてきた根本であった。その他大勢ではない、唯一無二の人間の束が吹き込む音楽。生きた人間の演る、音楽の説得力。
手前ミソで恐縮だが、初めてL!L!のライブに来た方が、“音楽ってこんなに楽しいものなのか”と口を揃えて言って下さる。そらそうだ。CDよりライブのほうが圧倒的に楽しく、素晴しいし、CDじゃ絶対に聴けないものが聴ける。何より、BIG-BANDとは明らかに違うもの(L!L!のメニューはアンチ・Swingだったが、ほとんどのブラスメンバーはフルバン経験者)、20人近いブラス人の腹の底から湧き出る息と気合と音楽性で、生きている人間がそこにいる確かさみたいなものを、ひとつの形として提供できたバンドではないかと思う。
ここで大原さんは、我々若手のミュージシャンに向かって“おまえたちがどんどんやれ”ということをくどいほど言った。華々しくも、ただお上手なだけでも、小さくまとまってしまう必要もない、“音楽”をやれ、やっていいんだと。まだ無名に近い若手に吹かせ、自らが楽器をあまり取らなかった背景には、大原さんのそんな考えがあった。Tbを手にするのは、1回のライブ中で何度かある程であった。(注※楽器をどっかに忘れてこなかった場合の話)そして、ひたすら棒振り(指揮)に徹した。(自称「司会」であった)しかし、延々MCをやめず、果ては音楽論・政治論にまで行ったりするので、こっちで勝手に曲を始めることもあった。
しかし“棒振り”といっても、最初のテンポを出した後は腕組みして目を閉じたまま。果たして、コンダクター・大原はソロ前1秒ぐらいで指示を出すのであった。“おまえやれ”。もしくはそれをさえぎって別のヤツがソロに立ちあがって“オレがやる”状況も勿論アリであった。(大原裕、非・平静時は後者の方式)ソロのイメージのあるもん勝ちみたいなところがあったが、それはそれでよかった。カタマリや流れとしてのスピードと音楽の説得力があればそれでいい。ライブはそんな風にして作られていった。
ところで、かの“SIGHTS(サイツ)”の音楽は、それはそれは圧倒的であった。破壊的、とよく評されているが、ただの破壊ではない。何より、音がいい。音色、スピード、グルーヴ・・・、今更ここで私ごときが改めるまでもなく、あんなプレイは後にも先にもこの人だけのものだ。とにかく、当時大原さんのプレイを目の当たりにした私は心臓と耳を鷲掴みにされてしまった。「世界を敵に回してもそこに大原の音楽がある」とされる、あのプレイだった。
しかしあえて書く。酒の人・大原裕は酔っ払い度があまり下がることなく、酒の道を突き進み続けることとなる。“あの”プレイもそうそう聴けなくなった。
メンバーのそれぞれが、プレイヤー・大原裕には同じような想いを持って、L!L!に挑んでいた。だからこそ、プレイに挑まない、挑もうとしない、ただの酔っ払いになり下がってどうすんねんという思いがあった。自分達のライフワークとも言えるこのバンドの続行のためにも、我々はあらゆる手をつくした。大原裕のプレイが、その部分だけ必要な大原のSOLOということだけでなく、当然L!L!の音の一部でもあったからだ。
多分、復活は不可能に限りなく近いものだったけれど、にもかかわらず最後まで、プレイヤー・大原裕の復活をどこかあきらめきれずに、しぶとい祈りにも似た気持ちであの人に関わり続けた我々は、最も救いようのないアホの集団であったことに間違いはない。
大原ネーミングの“LIVE!LAUGH!”について、本人は「生きる!笑う!だ」と言っていたが、私はそれではぬるいと思う。L!L!は「生きろ!笑え!」だと思っている。そしてこれは多分、大原さん自身のココロからの叫びだ。
99年7月1日発行のL!L!通信中で大原さんはこんなことを言っている。
「・・・(略)どうやって生きていいかも闇の中やから。生活ってのはほんと重いなあ。LIVE!が消えてLAUGH!(=笑い)が残ったらええんやけどね。」
大原さん、ほんまに消えてどうするんですか。
あとの私達は笑うしかないじゃないですか。
その日、その人の訃報は、解散以来ろくにマメな連絡も取っていなかった、けれどお互いをずっとココロに留め続けてきたL!L!メンバー間を走った。それぞれ、変わらず自分の音楽を実践し、試し続けてきていたミュージシャンたちが変わらずそこにいた。
ここで、よくある小ざかしい追悼ライブで終わらすだけでは済まない、と思っている。ただ、大原の想いを引き継ぎ・・・というそんなカッコつけた、理屈じみたことは考えていない。
わざわざここに書くまでもない、ミュージシャンシップ、としてすべき我々の仕事は勿論色々ある。ただ、“大原のいない”L!L!でもなく、“新たな”L!L!でもなく、何の理屈もなく、ただ、「はい、音出すよー」と、集まった人間がおもむろに楽器を持ち上げ、いっせーのであの音を出す。もしそんなことができれば、何よりじゃないかと思っている。
これを書くにあたって、L!L!の音源を聴き返したり、ビデオを観たりなんかしてみた。相変わらず、謙虚なんだかエラソーなんだかわかんない音楽解説をしながらステージにいる大原さんがそこにいる。
ふと、音源にあるL!L!ラストライブの日付記録を見た。2001年12月14日。
急逝は2年後の12月13日。
12月14日は大原さん密葬の日であった。
追伸:
私がモノノケサミット初デビューの2001年11月11日の場にも、大原裕がいた。そして、私が大原裕と同じステージに立った最後は、磔磔・つづらおりの宴での『満月の夕』であった。
そういや中川さん、今年12月17日のBIG-CAT。MCで“大原裕に捧げる”とか言いやがって。その直後に『満月の夕』を演奏するのは、それはそれは大変でした。
2003.12.27 HINO@SAX<樋野展子>
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