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最終更新日:2008年12月10日
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追 悼 ・ 歌舞伎昌三(岡田マサル)

中川敬(ソウル・フラワー・ユニオン)
  歌舞伎昌三(岡田マサル)、ありがとう!

  みなさんもご存知、名古屋や関西や辺野古のソウル・フラワーのライヴで、舞踏家「歌舞伎昌三」としてステージに立ち続けた「岡田マサル」君が、12月9日23時23分、素晴らしい仲間たちにかこまれながら、その豊穣な人生を閉じ、永い眠りにつきました。享年47歳。
  語るべき言葉、語り継ぐべき言葉は山のようにあるのですが、あまりに多くのものを貰い、学んだこの数年を、今、一口で表現することなど出来ようもありません。
  この場では、報告にとどめますが、彼のことをあまり知らなかった、という人にも、末期癌・余命宣告されて4年、素晴らしい生き様を見せながら生き抜いた彼の、まさしく“謳い放った”“踊り放った”人生讃歌の一端に、今からでもいいから、是非とも、触れて欲しいと思います。
  歌舞伎昌三(岡田マサル)は、これからも我々の胸の内で生き続けます。
  バトンは受け取ったぞ!
  マサル、ありがとう!!
  次は、来年2月6日、亀山「月の庭」で!

中川敬(2008年12月10日午前4時記す)


追悼!歌舞伎昌三!

  息を引き取ったマサル(歌舞伎昌三)の顔は笑顔だった!
  2004年秋に2年の余命宣告を受けてからのマサルは、万事がそんな調子で、彼の身体を気遣う周囲が唖然とする程、肯定ヴァイヴと笑顔を振りまき続けた。生きること、すなわち、宴・祭りであることを、マサルは最後の最後までその肉体をもってして実証し続けたのだ。
  2005年、ソウル・フラワーの伊丹英子らが中心となって、「震災十年目神戸再集結」ということで、神戸・長田神社にて『つづらおりの宴』なる祭りを開催。そこにマサルはいた。三重県の亀山から「これだけは絶対来なあかんと思ったんや〜」とか言いながら。リクオと山口(洋)が「満月の夕」を演奏している時、その演奏をBGMに、楽屋入り口付近にて二人で立ち話(二人とも、ちゃんとライヴ、観てないやん!)。その時、ややいつもより深刻な風情のマサルから、初めて「末期癌・余命宣告」の話を聞いたのであった。
  マサルとの出会いは、そんなに古い話ではない。2001年秋、ヤポネシアン・ボールズ・ファンデーションの名古屋公演後の楽屋。山口洋の友人として、マサルの経営するオーガニック・レストラン『月の庭』のを俺に手渡しながらの初対面であった。
  その後は、早かった。共通の活動履歴(反原発運動、先住民運動etc)もさることながら、性格に共通の要素を感じ取り合った俺とマサルは、まるで旧友かのように、名古屋・四日市・亀山などなど、行事あるごとに酒を酌み交わし、(当然のことながら)映画の話題や時事に花を咲かせたのであった(マサルは、俺より数年歳上なのだが、「日本男児」には珍しく、そういったことを全く感じさせないのだ)。
  余命宣告後、ひょんな思いつきでソウル・フラワー・ユニオンの「星降る島」(『ロロサエ・モナムール』収録。マサルも2003年に東ティモールへ行っている)にコーラス参加してもらったあたりからか、関係は密になってゆく。マサルが舞踏を始めたのだ。名古屋周辺で行なわれるソウル・フラワー・ユニオン、モノノケ・サミットの(ほぼ)全ライヴに「白塗りの舞踏家」として参加することになり、大阪や神戸、東京のライヴも時間の許す限り、頼みもしないのに(笑)、マサルは当たり前のようにライヴ前の楽屋で白塗りになるのであった(ライヴ当日の午後、「今から行くわ。踊らせてな〜」というパターンも多かった)。
  正直な話、今から振り返ると、当初マサルをソウル・フラワーのステージに上げることは、我々の中で、「彼の身体に良かれ」との判断によるところが大きかったように思う。モノノケ・サミットの、寄せ場や障害者イベントのライヴでは、以前から当たり前のように「何者かがステージで舞う」という光景があった、というのもある。深い考えがあった訳ではないのだ。しかし、共演数を重ねる内に、彼の舞いに、確実に変化が起こり始めたのだ。次第に、命を伝達する意思漲るその舞いは、ソウル・フラワーのライヴにかかせないものになってゆく。DVD『ライヴ辺野古』リリースは、実のところ、マサルの舞いを作品として刻印したい、ということも俺の頭中にはあったのだ。
  多くの人に愛されたマサル。その人となりは、有志が立ち上げた彼の公式サイトやミクシィのコミュニティ上にある、素晴らしい友人たちの言葉・吐露に凝縮されている。くどくどここで拙文を展開する気はない。ただ、それでもただ一つ、ここで書いておきたいのは、筑紫哲也さんが亡くなった折りに感じた事柄にも共通するのだが、マサルが笑いながら苦しみながら手渡そうとした「バトン」を、生き残った我々はしっかりと受け取ったのか、ということ。筑紫さん同様、マサルがはからずしもメッセージし続けた「広大さ」、安易な「寛容」ではない、勿論諸行無常の境地でもない、むしろ現実を直視し厳しく拘り続けることによってでしか立ち上ってはこないであろうその「広大さ」を、彼のお陰で「繋がった」我々がしかと胸に受け止め、またそこから学び続けること。そこにこそ俺は関心があるのだ。人は、日常の些事の中で、おうおうにして「狭く」なるものだ。これから寂しくはなるが、歌舞伎昌三・岡田マサルは、そういった形で我々の胸の内で生き続けるのではないか。また、そうでないと、肉体の、精神の、その全てを曝け出し見せてくれた彼の生き様に、応えることにならないのではないか。
  そんなことがら諸々に思いを巡らせながら、今日一日はしばし音楽から離れ、マサルも愛してくれた一歳半になる息子「ゆめ」と、現在、積み木遊び敢行中である。
  マサル!  来年2月6日『月の庭』でモノノケ・サミットやで〜。

  追記 1:昨日(12月9日)の神戸VARITでのソウル・フラワー・ユニオンのライヴで、「満月の夕」演奏時、実況中継で携帯電話を病室に繋ぎ、歌舞伎昌三と最後の共演を果たした。息を引き取ったのが23時23分だから、その二時間前ぐらいか。病室にいる環音(わをん)の広田奈津子嬢に電話を繋ぎ、病床のマサルに聴かせてもらったのだが、驚くべきことに、脱水状態であるにも関わらず涙を流し、「ヤサホーヤ」の瞬間、唇の形が「ヤサホーヤ」になった、とのこと。さすが、マサル! 今も「ジョン・レノンの命日と同じ日(日本時間)を選んだんやで〜」とか言ってそうやね。

  追記 2:マサルを看取った主治医・来田亮二さんの日記の中に、マサルが毛筆で書き残した一枚の半紙の話があった。その半紙には、こうある。「みなが同じ喜びの道を歩んでいけるように。 心はどんな線引きもせず未来へ、ただ未来へ続く祈りの静かな形でいいんだ。 病気よ来い! 苦労よ来い! 仲間もたくさん集まってるぜい。まさる」

  中川敬(2008年12月10日午後9時記す)

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