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最終更新日:2004年4月5日
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チュプチセコルさん・追悼文
(中川敬/ソウル・フラワー・ユニオン・歌手)
  チュピー(俺らはフザケて、そう呼んでいた)と最初に出会ったのは、忘れもしない1993年12月5日、彼の主催する散歩会「アイヌ・モシリを訪ねて」に参加した時のことだった。日付けまで克明に覚えているのは、新結成したばかりのバンド、ソウル・フラワー・ユニオンのファースト・シングル <世界市民はすべての旗を降ろす> の発売日が、その数日前、12月1日であった為だ。
  その一か月前にリリースしたファースト・アルバム <カムイ・イピリマ> は、ずばりタイトルがアイヌ語で(「自然の耳打ち」の意)、和人が如何にアイヌ・モシリを蹂躙してきたのかを告発する曲 <お前の村の踊りを踊れ(エコタヌタプ・カラキーキ)> などを含む、当時の若かった我々にとってはかなり冒険的な内容のアルバムであった。
  俺がアイヌの文化や抵抗史に興味をもったきっかけも、今となっては定かでないが、東西冷戦の瓦解や戦犯天皇ヒロヒトの死など、節目を実感させる社会の大きなうねりと無関係ではなかったように思う(俺の周囲に全共闘の残兵が多くいたことも関係していたように思う)。1992年の萱野茂さん参院選出馬時にはライヴ会場で署名活動などを行い、先述の曲の歌詞の内容を、電話で萱野さんに確認してもらったりもしていた。
  今思えば、当時のそういった「アイヌ」への興味は、ネイティヴ文化への驚きに似た共鳴であったり、アイヌ抵抗史への好奇的関心であったり、理由は複雑に交錯しているが、やはり、自分達の足元の不確かさ、「ニッポンって何やねん」という思いの強さにあった。
  出会ったチュピーは、とにかく喋る。相手が理解してなくても、とにかく喋る(笑)。こちらは京都の山科に「変なアイヌ」がいることに驚き、向こうは若い「変な和人パンク」がアイヌに興味を持っていることに驚く、といった風な、実に珍妙な、しかし幸福な出会いであった。
  それからは、ソウル・フラワーがアイヌに関連した楽曲(アイヌ民謡『アランペニ』『ピリカ』など)を取り上げるたびに相談したり、彼も何故か(ライヴ終了後の)打ち上げに朝までいたりと、単なるお馬鹿な飲み友達としての交流が続いた(下戸のチュピーは朝まで、確かジュースを飲んでいた。アイヌのアの字も知らない若い衆に、例の早口で、ファミコン・ゲームの話を延々するのだ。相手が理解してなくてもだ)。そして、ソウル・フラワーが93年から98年まで発行していた機関誌『NO GURU』にも、例の、引用だらけの難解な原稿を連載してもらってもいた(詳細はこちらまで。www.breast.co.jp/soulflower/sfo/noguru.html)。俺はいつも会うたびに、彼に注文していた。「なあ、内容ええねんから、もっと分かりやすく文章書いてや。若いやつ、あのページ飛ばすやん」「別にええんよ。理解出来なくても。(伝えたいことは)あんな感じやし」「どんな感じやねん!(笑)」
  そういえば、阪神大震災のあと、我々の神戸出前ライヴの噂を聞き付けたチュピーは、俺の自宅に山のような量の駄菓子を送りつけてきたこともあった(勿論、被災地の子供達へ配る為にだ)。
  確かな年は覚えていないが、数年前、ソウル・フラワーが京都精華大学の学祭に出演した時に、楽屋に訪れたチュピーは、かなり疲れた感じで、お母さんが死んだことを話してくれた。それ以降、頻繁だったライヴへの訪問もなくなり、俺らも忙しさにかまけてチュピーのことを暫し忘れていたのだが、一度だけ大阪アメ村のライヴ会場に来てくれたことがあった。彼の死の一年程前だったと思う。あまりに痩せこけて別人のような風貌の彼に、俺らは全員驚いたものだった。俺らは、その時に初めて体の調子がおもわしくないことを知ったのだった。
  しかし、早過ぎる。まだまだ、聞きたいこと、教えて欲しいことが沢山あった。友人の死というのは、いつも、あの時もっと喋っておけば良かったという後悔の念ばかりが頭をよぎるものだ。
  チュピー、あの世でも喋りまくってくれ。ただし、ジュースの飲み過ぎには注意や。人の話もじっくり聞くように(笑)。沢山の楽しい想い出を、ありがとう!
(2004年4月2日、「チュプチセコルさん追悼文集」の為に記す)

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