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永遠と一日
  (1998年 ギリシャ=フランス=イタリア)
  監督: テオ・アンゲロプロス
  原題: MIA EONIOTITA KE MIA MERA(ETERNITY AND A DAY)
  主要舞台: ギリシャ
    *「テオ・アンゲロブロス全集DVD-BOX IV」に収録
発売元:IMAGICA/紀伊國屋書店
販売元:紀伊國屋書店
商品番号:KKDS-133
価格:¥17,010(税込)

  映画を観るのと同様、テオ・アンゲロプロスのことを書くのも、また楽しい。共感、共鳴、発見、驚愕、歓び……。彼の作品を繰り返し観る内に、「そうじゃろう、そうじゃろう、まったくもって、そうじゃろう」と、強く頷く自分がいる。
  例えば、以下のような言葉にアンゲロプロスの思考の多層性、誠実さが如実に表れている。「(自作に)楽天的でも悲観的でもなく、私達の時代の忠実なイメージであることを望んでいます。楽天家は往々にして現実から背を向け、物事が良くなっていくべきだと信じる為の偽の理由をでっち上げます。他方、ペシミストが唯一許容出来る結論は、立ち止まって自殺することだけです。映画(『ユリシーズの瞳』)の最後で、登場人物達は“旅が続いていく”ことをほのめかします。つまり、故郷を探し求める旅が続くのです。(中略)探求は終わっておらず、映画も終わっていません。現代スウェーデンでおそらく最良の小説家であるラース・グスタスホンの言葉で言えば、“我々は決して降伏しない。我々は旅を続けなければならない”のです」「民族的な独自性がまったくない為に、国際的な感じを与える作品がありますが、そういうのはどうしようもない作品です。魂のない映画です。何故人々はこれほどまでに古い映画を愛するのか?  それは、差異というものがまぎれもなくそれらに刻み込まれているからです」「“戦争は避けられない”と言う人もいますが、私はそうは思いません。津波は天災ですから、起きることは避けられませんが、人間が人間を悲劇に追い込む戦争は避けることが出来るはずです」(アンゲロプロス)
  アンゲロプロスの映画に「解決」を暗示する終止符はないし、また、連続する離散と彷徨の道中を彩る唄に「コーダ」もない。「時の流れを緩やかにする為」(アンゲロプロス)に映画を作り続けるアンゲロプロス。混沌を引き受けながら、「目撃」しながら、故郷喪失者達の漂流はひたすら続くのである。むろん覚悟の上だ。

  毎作「国境」と「歴史」を描きながらも、作品ごとに、より内面の深淵へと接近し続けるアンゲロプロスは、本作『永遠と一日』で、一人の男の一日、しかも「人生最後の日」を追う。
  今日が人生で最後の一日だと悟ったら、さてどうするか。「死」を前にすることによって、否応なく立ち上る「生」の充溢。アンゲロプロスは、過去と現在と未来が凝縮してある一日を、「死」ではなく、「生きること」を主題に描くのだ。そして前作『ユリシーズの瞳』がそうであったように、永遠の主題である「記憶」の、更に踏み込んだ深化がここでもみられる。
  カンヌの最高賞であるパルムドールに輝いた本作は、マストロ・マストロヤンニ、ハーヴェイ・カイテルに続き、ヴィム・ヴェンダースの名作『ベルリン・天使の詩』のブルーノ・ガンツを主役に立て、詩人の老人の人生最後の一日を、特有の映像美・映画話法で、情感たっぷりに描いてゆく。当初、本作でもマストロ・マストロヤンニを起用するはずだったが、健康状態があまりに悪かった為、残念ながら見送られている(その後、すぐにマストロヤンニは亡くなった)。
  ちなみに、オーディションで選ばれた少年役のアキレアス・スケヴィスは役柄同様、実際のアルバニア難民の男の子である。

  舞台は北ギリシャの港町テサロニキ。作家で詩人でもあるアレクサンドレ(ブルーノ・ガンツ)は、不治の病に冒されており、明日の入院を前に、今日が「人生最後の日」であることを悟っている。妻のアンナは三年前に他界。アレクサンドレは、身辺整理を済ませ、愛犬を伴い、車で娘カテリーナのマンションへと向かうのであった。
  その途上、「不法入国」のアルバニア難民の子供達が車窓拭きで群がって来るも、警察が狩り込みにやって来て、アレクサンドレは、追われる少年の内の一人(アキレアス・スケヴィス)を匿って、逃がしてやる。
  アレクサンドレは、カトリーヌに、暫くの旅の間、愛犬を預かって欲しいと頼むが断られ、しかも、大切な思い出の詰まった「海辺の家」を売りに出したことを知り、愕然としたまま、愛犬を連れ、立ち去るのであった。
  匿った少年がトラックで運び去られるのを目撃したアレクサンドレは、トラックを追跡し、行き着いた廃屋で「人身売買」の現場に遭遇する。彼は代金を払い、少年を救い出す。「先のない」アレクサンドレは、祖母が住むというアルバニアへの国境行きのバスに少年を乗せようとするが、少年はなかなか離れたがらない。
  国境。越境に失敗した無数のアルバニア人の遺体が、鉄条網に吊るされたまま、濃霧に浮かび上がる。少年は、祖母などいないこと、命がけで一緒に密入国した親友セリムのこと、などを告白し、二人の短い旅が始まるのであった。
  身体を襲う激痛。少年との言葉遊び。そして、アレクサンドレは記憶の迷路へ迷い込み、回想が続く。少年時代。愛しい亡き妻との口づけ。母との別れ……。「お母さん。何故、願うことが、願い通りにならない?  何故、我々は、希望もなく腐ってゆくのか?
  苦痛と欲望に引き裂かれて、何故私は一生よそ者なのか?」
  少年の親友セリムが海に打ち上げられ、難民の少年達は廃屋でセリムを弔う。
  少年が難民仲間と一緒に深夜便で出航するまでの数時間、アレクサンドレと少年は、別れを惜しみ、バスに乗る。乗り合わせるのは時空を超えた乗客達。「魂の駅」で乗り込んで来た、赤旗を携えたコミュニスト。学生カップル。演奏を始める音楽院の学生達。そして、アレクサンドレは、「オデイオン駅」で乗り込んで来た19世紀の詩人ディオニシオス・ソロモスに問いかける。「教えてくれ!  明日の時の長さは?」
  二人は、バスを降り、港へ。汽笛とともに、少年達を乗せた船は夜の闇へ出航する。見送るアレクサンドレ。
  早朝、懐かしい「海辺の家」へ辿り着いたアレクサンドレは、死んだ妻アンナと踊り、語らう。幸福な一時。そして、問う。「明日……、明日って何だ?  いつか君に聞いた、“明日の時の長さは?”。君の答えは?」。アンナが「永遠と一日」と答える。
  「アンナ。私は今夜、向こうへ渡る。言葉で君をここに連れ戻す。すべてが真実で、すべてが真実を待っている」。アレクサンドレ、最後の決意の言葉だ。波音に紛れて、自分を呼ぶ声がする。「アレクサンドレ!」

  たびたび時空を超え、ワンシーンの中にすら異なる時間(時代)を持ち込むアンゲロプロスだが、本作では、交錯し並行する現実と記憶の間の境界は完全に取っ払われており、そのことによって、主題である「生と死の境界」がより明確に劇的に際立つ仕掛けになっている(アンゲロプロス映画にしては珍しく、回想シーンに目映いばかりの陽光がある!)。冷酷に立ちそびえる鉄条網の境界(国境)に対して、人間の内面に宿る境界は常に流動的なのだ。「いくら国家が境界を設けようとも、我々にはそれを飛び越えてゆく想像力がある!」とでも言わんばかりの越境宣言。「永遠と一日」は、「記憶と現実」「人間と国家」と置き換え可能ではないか。
  三作続けて表現者の危機を描いたアンゲロプロスは、ある意味、自分の分身を銀幕に登場させ、其所此所にある境界の、あらゆる越境のパターンを試しているのかも知れない(『こうのとり、たちずさんで』『ユリシーズの瞳』、そして本作をまとめて、「境界三部作」と呼んでしまおう)。アレクサンドレのモノローグ、「私の心残りは、アンナ……、君は分かるよね。私は何一つ完成していない。あれもこれも下書き……、言葉を散らかしただけだ……」「未完の長い詩が残った。完成に生涯をかけたが、言葉と時間が足りなかった」は、アンゲロプロス自身の思いの吐露ではなかったか。
  死という名の恐怖に直面し、目を閉じる度に、過去の幸せな瞬間へ、時空を越境してしまう孤独なアレクサンドレ。今までの人生の、何と境界の多かったことか。アレクサンドレは、よりによって「人生最後の日」にようやく愛の境界を飛び越え、「一日」が「永遠」に繋がっていることを知るのであった。
  誰もが「魂のバス」に一度は乗るのだ。

  「時間とは、浜辺で石遊びをする子供のようなものです。この作品の登場人物達は、あたかも時間と空間が存在しないかのように、時間と空間を通り抜ける旅をします。一番重要な問いかけは、“明日はどれくらい長く続くの?”です。答えは“永遠と一日”。私達は運が良ければ、今日、私達が携えている未来像に到達するまで、生きることが出来るかもしれません」「時代の混乱から抜け出す方法を見つける私達の能力について、私は悲観的でもあり、楽観的でもあるのです。でも、私は人々が再び夢見ることを学ぶのを深く望んでいます。私達の夢以上に、現実的なものはないのですから」(アンゲロプロス)