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ユリシーズの瞳
  (1995年 フランス=イタリア=ギリシャ)
  監督: テオ・アンゲロプロス
  原題: TO VLEMMA TOU ODYSSEA(ULYSSES' GAZE)
  主要舞台: 旧ユーゴ連邦圏
    *「テオ・アンゲロブロス全集DVD-BOX II」に収録
発売元:IMAGICA・紀伊國屋書店
販売元:紀伊國屋書店
商品番号:KKDS-131
価格:¥17,640(税込)

  「今日、独裁政権は操作が可能です。民衆を民主主義的に操作する方法がある。コミュニケーションの方法を統制下におけば、独裁者は同時に世論を統制することが出来るのです。これが今、アメリカで行われていることです。アメリカ国民は、世界で起きている出来事についてあまり多くを知りません。知らされていないのです。大多数はギリシャがどこにあるのか知りません。そんな彼らが世界を支配している。非常に危険なことです。またアメリカの文化も、徐々にアメリカ以外の地域の文化を支配しつつあります。映画やあらゆるものを通して。この“一方通行”も、世界の未来にとって危険です。本来なら他者からのリアクション……つまり唯一の大国によって決定された事柄に対して、各自が“イエス”“ノー”を言うことが必要なのです」
  これは、筑紫哲也との対談(『週間金曜日』)でのテオ・アンゲロプロスの言葉だ。ではどうすれば良いのか、との筑紫氏の質問に、アンゲロプロスはこう答えている。
  「どうすればいいのでしょう(笑)。わかりません。ただ言えるのは、もはやマス・ムーブメントの時代ではありません。今は各自が、自分に出来るほんの小さなことからやるべき時代です。例えば、私が自分の映画作品で出来るのは、自由に語ろうとすること。興味があることについて、私自身について、生きてきた国について。出来る限り誠実な方法で。そして誰かに……とくに若者に、考える可能性を与えることです。確かに小さな貢献ですが、私が望むのは、将来、世界中から集まったこれら小さな貢献のすべてが連帯し、一つの真の道となることです」
  元気の出る話ではないか。この激動の世紀の節目にあって、アンゲロプロスのような世界的表現者が、「インターナショナル」の本質を捕まえ、グローバリズムの潮流に抗って生き抜いている姿を見るのは、実に爽快な気分だ。旅をする者特有の脱国境的視座が、この短い発言の行間からも読み取ることが出来る。そう、何度も言うが、国境は概念でしかない。人間の内面的な問題なのである。

  そのアンゲロプロスが、「イデオロギーの終焉」の時代を総括するべく、阪神大震災の年に完成させた名作が『ユリシーズの瞳』だ(「阪神大震災の年」とあえて言うのは、当時被災地に入り浸っていた頃に本作を観たからだ。その為、俺の中に本作の風景と被災地の風景が繋がってある。どちらも凍てつくような冬だ。ちなみに本作、カンヌでグランプリを受賞している)。
  1990年代と言えば、「世界の火薬庫」バルカン半島に大量の火がくべられた凄惨なディケイドでもあった(『ビフォア・ザ・レイン』『パーフェクト・サークル』『ノー・マンズ・ランド』の項参照)。サラエボに始まり、サラエボに終わった二十世紀。巨匠は、なんとアメリカからハーヴェイ・カイテル(『タクシー・ドライバー』『ピアノ・レッスン』『スモーク』『パルプ・フィクション』)を迎え、激動の二十世紀末にあって、戦火のバルカン半島に照準を合わせた(当初は『蜂の旅人』『こうのとり、たちずさんで』に引き続きマルチェロ・マストロヤンニを起用するつもりであったらしい。マストロヤンニの身体の具合を鑑み、カイテルに切り替えたようだ)。母親がルーマニア系で父親がポーランド系のカイテルにとって「帰郷」を意味する本作は、世界戦争時代の20世紀が文明の交差点たるバルカンに始まり終わった、ということを総括する壮大な叙事詩にもなった。サラエボで始まった第一次大戦から、90年代のユーゴ紛争まで。この近代史への「帰郷」は、我々人類が何を学び、何を学ばなかったのかを証明する黙想的な映像の旅でもある。
  アンゲロプロスの映画は常に重層的に主題が置かれているが、本作には、一世紀を迎えた映画史への「帰郷」という含みもある。20世紀初頭にバルカン半島で最初の映画を撮ったマナキス兄弟の未現像の三巻がバルカン半島のどこかで眠っており、カイテル扮する映画監督がそのフィルムを探す、そして、一人四役のマヤ・モルゲンステルンの象徴する「理想の女性」を探す、というのが物語の骨子だ。
  アンゲロプロスは、混沌のバルカン半島縦断(ギリシャ、アルバニア、マケドニア、ブルガリア、ルーマニア、新ユーゴ、ボスニア・ヘルツェゴビナ)という形で、「20世紀の落とし物」を探索する旅に打って出たのである。

  物語は、1994年、アメリカ在住のギリシャ人映画監督A(ハーヴェイ・カイテル)が、映画百周年記念に作られるマナキス兄弟の映画の監修と、自作(ここでは『こうのとり、たちずさんで』ということになっている)の映画上映の為に、三十五年ぶりに北ギリシャの街フロリナへ帰郷しているところから始まる。
  アンゲロプロス自身が数年前に経験した実話のまま、Aが訪れているフロリナでは、ギリシャ正教正当派勢力による『こうのとり、たちずさんで』への上映阻止運動がヒートアップ(『こうのとり、たちずさんで』の項参照)。主教派、自由派、警官隊の一触即発の緊張にある街なかで、Aは、かつて再会を約束した恋人らしき女(マヤ・モルゲンステルン)とすれ違う。
  そして、Aのもう一つの仕事、「マナキス兄弟の幻の未現像フィルム(三巻)探し」の旅が始まる。いわば「最初のまなざし」を探す旅だ。
  隣国アルバニアを経由し、マケドニアへ。Aは、マケドニアの町ビトラ(モナスティル)にある「マナキス兄弟博物館」で、職員の女性(マヤ・モルゲンステルン)に出会う。首都スコピエに向かう列車の中で、彼は彼女に憑かれたようにフィルムのことを語るのだ。激しく求めあう二人。
  ブルガリア国境の検問所で、処刑されかけたヤナキス兄弟の記憶(1915年)に取り憑かれるA。そして、ルーマニアのブカレストへ向かう道中では、黒海に面した生まれ故郷コンスタンツァ(コスタンザ)からギリシャへ移住するまでの少年時代の一家の苦難(1945年〜1949年)に取り憑かれる。そして、ドイツの収集家が買い取った巨大なレーニン像を乗せた船で、ドナウ河をセルビアへ。
  新ユーゴ(セルビア・モンテネグロ)の首都ベオグラードで、旧友の政治記者ニコス(ヨルゴス・ミハラコプロス)と再会し、ベオグラード映画博物館の元教授ボビシッツァから幻のフィルムがサラエボにあることを聞く。ボスニア戦争勃発で音信不通になっているサラエボ映画博物館館長のユダヤ人イヴォ・レヴィ(エルランド・ヨセフソン)が現像法を研究しているとのこと。
  荒廃した戦火のサラエボ。Aは、イヴォ・レヴィを訪れ、戦争の為、完成寸前でフィルム現像を諦めたレヴィに、「戦争と、狂気と、死の、そんな時代だからこそ、あれを現像しない権利はあなたにない」と言い張り、そのまま昏倒してしまう。再びフィルムの現像に取りかかるレヴィ。
  翌朝、Aはレヴィの娘ナオミ(マヤ・モルゲンステルン)と会う。レヴィは幻のフィルムの現像に成功し、フィルムが乾く間、戦闘の止んだ濃霧のサラエボ市街へ散歩に出る。公園でナオミと、再会した恋人同士のように踊り、語らうA。
  しかし、濃霧の中へ消えたレヴィの家族は兵士に捕えられ、銃声が轟く……。
  映画博物館。映写機の回転音。一人になったAは、レヴィが現像した幻のフィルムを見る。白い光だけの映像。Aは言う。「私が戻る時は、他人の衣服を着て、他人の名を名のり、唐突に戻るだろう。(中略)二人して昔の部屋へ上ってゆき、何度も抱き合い、愛の声を上げ、その合間に旅の話をしよう。夜が明けるまで。その次の夜も、次の夜も。抱き合う合間に、愛の声の合間に、人間の旅のすべてを、終わりなき物語を語り続けよう……」

  冒頭にある言葉、「自らを知るには、魂でさえ、魂を覗き込む」(プラトン)にあるように、実際のところ、入れ子状にある歴史の記憶への接近戦が、単純明快な回答を導き出すという訳ではない。何故なら「帰郷」は永遠に進行形だから。しかし、「帰るべき場所」を想像する、自由への深遠な旅を、一人一人が「持っている」という言い方も可能だ。そうしてみると、「最初のまなざし」「理想の女性」を苦悩しながら探し求める映画監督Aは、現代という時代に生きる我々一人一人のようでもある。平たく言ってしまえば、「国境が創出されて以来、一人一人がディアスポラの道中にいる」と認識することへの覚悟を持て、と本作が語りかけているような、そんな気がしたのである。
  本作は、「人類の帰郷」や「バルカンの帰郷」を指し示しているのと同時に、当然のことながら、映画監督Aの個人的な内面的回帰、自己探求を描いた物語でもある。前半のフロリナのシーンで、「君は三十五年間も留守にしていたんだからな。三十五年の距離。三十五年の郷愁。バルカンの現実はアメリカの現実より厳しい。君は今、暗い水の上を渡っている」とアテネ博物館の男に言わせているのは、アンゲロプロス自身の自問が本作を貫いてあるから、とみることも可能だ。アンゲロプロスとAは、どこかで精神の危機を共有しているのだろう。ラストシーンのAにみるように、いつになく感情的なアンゲロプロスが本作にいる。
  「最初のまなざし」「理想の女性」を探さなくてはならない圧倒的孤独。Aの絶望的な程の内面の葛藤は、ハーヴェイ・カイテルという蛮勇的個性を置くことによって、より悲壮なぐらいに際立ち、より観る者に生々しく伝わってくる。撮影中、カイテルとアンゲロプロスの間には衝突もあったらしいが、カイテルはのちに「この映画で私は変わった。これは私の生涯の映画だ」と述懐している。
  血に彩られた世紀とともに、映画も生誕百年。1895年、リュミエール兄弟の「最初のまなざし」にあった無垢は、今、戦争(人殺し)の実況中継に取って代わった。
  「天動説」の世情の中を、我々はどう闘い抜けばいいのか。当節、アンゲロプロスの作品が示唆するものは、あまりにも大きい。