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エレニの旅
  (2004年 ギリシャ=フランス=イタリア=ドイツ)
  監督: テオ・アンゲロプロス
  原題: TRILOGY : THE WEEPING MEADOW
  主要舞台: ギリシャ
    発売元:紀伊國屋書店
販売元:紀伊國屋書店
商品番号:KKDS-261
定価:税込¥6,300

  団塊の世代は「我々はビートルズの全アルバムを発売日にドキドキワクワクしながら買って聴いていた」と、さも自慢げに、あたかもそのことが自らの輝かしい功績かのように語るが、しかし我々にだってテオ・アンゲロプロスがいる。リリース・ペースこそビートルズの比ではないが(当たり前)、アンゲロプロスの新作を待ちわび、ようやく観ることの出来る歓び。映画はやっぱり映画館よね、という意見ももちろん分かるが、むさぶるようにアンゲロプロスの全作品をDVDで観れるこの時代に、俺は心から感謝したい。ありがとう池澤夏樹。メルシー紀伊国屋書店。グラッチェDVDデッキ……。
  「映画の極北」と言っても差し支えない、生と死の境界を描いた傑作『永遠と一日』(1998年。カンヌ映画祭パルムドール大賞)から待つこと六年。構想二年、撮影二年。「ロスト・ホームランド」を描き続けるアンゲロプロスの、待望の新作がこの『エレニの旅』だ(原題は「嘆く草原」)。アンゲロプロス語るところによると、本作は三部作の一本目とのこと。当初は一本の長編で二十世紀全体を描く構想であったようだ(それでは四時間以上になる、とのことで予定変更)。我々は、またもや数年がかりで、二十世紀の証言とでも言うべき彼の荘重な叙事詩世界を、たっぷりと堪能出来る幸運にある訳だ。
  この、ロシア・ボルシェビキ革命の混迷にあった1919年から、ギリシャ内戦を経た1949年までの、激動のギリシャ史を生き抜いた一人の孤児の女の物語を、アンゲロプロスは自身の母に捧げている。「二十世紀というのは私の世紀でもあり、私の母の世紀でもあった。母は1998年に、カンヌ映画祭で『永遠と一日』を上映した三ヵ月後に亡くなった。『エレニの旅』で描かれる愛と悲しみ、歴史の激動は、私の母が実際に生きたものだ」(アンゲロプロス)
  主人公の名「エレニ」は、ギリシャ女性に多い名で、またギリシャの愛称でもある。時代に翻弄されながらも逞しく生き抜く難民エレニは、まさにギリシャの姿そのものなのだ。「エレニは、難民の、追放された者の、放浪する者の、持たざる者の、肉体化した姿だ。(中略)彼女の存在は、住むべき家や暮らすべき家がないことに決定づけられている。一つの世紀にわたって次から次に根を奪われ続け、泊まるべき港、縋れるよすがを求め続け、慈悲のない運命を生きていく人間だ」(アンゲロプロス)
  オハコの「ワンシーン・ワンショット」も、驚嘆の圧倒的映像美も、徹底的に貫かれたアンゲロプロスの美学の極北にある。当然CG技術など入り込む余地はない。

  舞台は1919年、ロシア革命の年。ギリシャのテサロニキの荒れ野に、着の身着のまま、疲れ果てた一行が立ち現れる。赤軍の入城によって、ウクライナのオデッサから逆難民として追われたギリシャ人の一群である。一行の長スピロス、病弱なその妻ダナエ、息子アレクシス(五歳)、そしてオデッサで両親を失なった孤児エレニ(幼女)がいる。
  十年後。一行が作り上げた新しい村「ニュー・オデッサ」に、テサロニキで双子を出産した少女エレニ(十代前半)が戻ってくる。双子の父親はアレクシス。厳君スピロスがこのことを知ったらエレニは殺されてしまう……。スピロスの妻ダナエは、産まれたばかりの双子をテサロニキの裕福な夫妻の養子にし、ひたすらこの事実を隠さなくてはならない。その夜、アレクシスはエレニへ、庭から窓越しに言う。 「いつか二人で、河の始まりを探しに行こう!」
  その数年後。ダナエの死を機に、周囲の反対を制し、スピロスはエレニを娶ろうとする。強行される結婚式。しかしエレニは、花嫁姿のまま、アレクシスと二人でニュー・オデッサ村をあとにするのであった。
  逃避行の途上、彼らを救ったのはヴァイオリン奏者のニコス。アコーデオンの名手でもあるアレクシスは、以降、ニコスらと行動を共にする。
  テサロニキの音楽院でピアノを連弾する双子、ヤニスとヨルゴス。エレニは、こっそりとドア越しに息子達を見つめ、涙する。
  市民劇場の天井桟敷を住居にする、スミルナ敗戦時の難民達。「白布の丘」で暮らす、また別の難民一行……。描かれるのは、政治に翻弄され続ける多くの窮民達の姿だ。アレクシスは、ミュージシャンの集う「音楽の溜まり場」で、クラリネット奏者でマネージャーのジシスと出会い、アメリカ巡業への夢をつのらせるのであった。
  吹き荒れるファシズムの嵐。音楽をやっているだけで「左翼」と見なされるような時節だ。バンドの巡業先でもパブが閉店していたりする。
  エレニとアレクシスを探し続けていたスピロスが死に、晴れて双子の息子を引き取り、ニュー・オデッサで暮らすエレニら家族四人。しかし、横暴だったスピロスへの、村人の怨恨がエレニらに襲いかかる。木に吊るされる家畜の羊。浴びせられる投石……。そしてその夜、ニュー・オデッサを大洪水が襲い、村は完全に海と化す。テサロニキへと戻るエレニ達。
  「左翼」と見なされたニコスは、警察と怪しい関係にあるジシスにはめられ、当局に殺される。アレクシスは、エレニ達をのちに呼び寄せることにして、バンド巡業でアメリカへと旅立つ。
  ニコスを匿った罪などで入獄を繰り返すエレニ。アレクシスからの手紙には、命からがらの船旅、アメリカでの苦難に満ちた生活、市民権を得る為に志願兵になること、などが綴られている。第二次大戦。アメリカ参戦……。
  1949年。大戦、ギリシャ内戦を経て、ようやくエレニは獄から釈放される。米兵になったアレクシスは沖縄戦で、国軍兵になった息子のヤニスは内戦で、それぞれ命を落としている。
  もう一人の息子ヨルゴスは? エレニは、老婆に教えられ、水没したニュー・オデッサの村へ戻る。しかし、舟で到着した懐かしい家には、愛らしいヨルゴスの遺体が横たわっていた……。
  エレニの耳にアレクシスの声が響く。……昨夜、夢で、君と二人、河の始まりを探して山の奥深くに行ったよ。頂きに小さな草むらがあり、君が緑の葉に手を差し伸べ、葉から水が滴り落ちた。地に降る涙のように……。

  痛憤の悲劇。しかし二十世紀、我々人類は、無数に本作のような悲痛な体験をもった(否、それは今なお、其所此所にある)。そんな、「歴史」に収斂出来ない、おびただしい数の個々の「物語」「人生のうねり」を、アンゲロプロスは、指先でなぞるように、いたわるように描き出し、活写してゆく。本作と同時代を描いた『1936年の日々』(1972年)や『旅芸人の記録』(1975年)などで「政治」を、『霧の中の風景』(1988年)や『こうのとり、たちずさんで』(1991年)などで「国境」を、『ユリシーズの瞳』(1995年)や『永遠と一日』などで「個人」を、乾いた筆致で凝視するように描いたアンゲロプロスは、集大成とも言える本作で、遂に「魂」の深淵を辿り始めた。彼にしては珍しく、主役に「十字架」を背負った女性を据え、地上をたゆたう「魂」の本源に、具体的に触れようとしている。「運命」と手を携えた無垢な「魂」への、圧倒的なエレジーだ。
  例えば、他の監督が同じプロットで製作しても、おそらくこうはいくまい。往々にして「大河もの」が陥る、メロドラマ化の罠を、アンゲロプロスは軽々と飛び越えてゆくのだ。何故なら、彼が見たい海、山、空、曇天、霧、雨、雪、人間、歴史は、厳然と「そこ」にあるからだ(全作中に通奏低音のごとく広がる「色」を思い出してみればいい)。ならば、あとは「撮るだけ」ではないか。俺が彼の作品に全幅の信頼を寄せているのも、彼の中に強固な「描きたい何か」「描く為の確信」があり、それを俺自身がまた「共有」しているからに他ならない。終わることのない記憶の旅、帰郷へと幾つもの国境を越え続けるディアスポラの道行き、である。
  驚くべきことに、水没したニュー・オデッサ村のシーンは、冬の乾期の湖に建造したセットで前半を撮り、水没する季節まで撮影を待って、自然の力によって後半の水没シーンを撮ったということだ(二年がかり)。これは凄い! そんな「大事業」を、しれっと、あたかも当たり前のことかのように語るアンゲロプロス。どうしようもない大馬鹿者である。
  「タヴィアーニ兄弟が私に“テオ、まだ映画を続けているのか?(笑)”と聞きました。そこで私は、こう答えました。“美しい女性が遠ざかっていくのを撮影し続けていく瞬間が大切なんだ”と。美しい女性とは私にとっては映画なのです。映画は私の人生ですから、映画を撮ることをやめる時は死ぬ時です。映画をやめたら私は死んでしまいます。これは本当に、真面目に言っています」(アンゲロプロス)
  本作のDVDには、他作同様、卓見あまたあるブックレットが付いてくる。なので、せっかくの「新作」、これ以上言を弄する愚はやめよう。「ロスト・ホームランド」決定版、アンゲロプロスの魂の映像美、愛の視覚化、とにもかくにも、とっとと観てちょうだい。永遠の名作の登場だ!
  「私自身、辛い歴史の時代を生きてきました。私が一歳だった時、1936年に、第一次独裁制が敷かれ、五歳の時には第二次大戦でイタリア・ドイツとの戦争に入り、そして九歳の時にギリシャにおける内戦、市民戦争が始まりました。その度ごとに私が見たものは、喪に服する人達、泣き叫ぶ女性でした。私は、妹が亡くなった時の母の泣き叫ぶ声を今でも覚えています。その声が、この映画の中で女性が泣く声に反映されています。私は男性よりも女性の方が悲劇的であると思います。男性は戦争に行き、女性は死者の前に行って涙を流すのです。二十世紀、私の母を含め女性はいつも泣いていました。二十世紀の歴史は女性の涙とともにあったのです」(アンゲロプロス)