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暁の脱走
  (1950年 日本)
  監督: 谷口千吉
  原題: AKATSUKI NO DASSOU
  主要舞台: 中国
    発売元:東宝
販売元:東宝
定価:¥4,725(税込)
DVD発売中

  「先日、あるジャーナリスト二人と鼎談した時、もう一度敗戦を迎えないと日本人は分からないんだと言った。とんでもない。負けるということは戦争をするということ。日本が加害者になるということです。なぜそういう想像力がないのか。憲法九条は絶対手放してはならない」(朴慶南)

  日本の「反戦映画」の多くが、あくまで日本人を(空爆や軍国主義の)被害者・犠牲者の立場に置き、なかなか自らの加害性には触れない、ということは、『ひろしま』(1953年)の項で書いた。「罰」は描くが「罪」は描かない日本の「反戦映画」。上記の「ジャーナリスト二人」の発言にみられるように、戦争には必ず加害者がいるということが、まるで喧嘩両成敗かのようにすっぽりと抜け落ちているのだ。
  しかし、今に生きる、いわば戦争に実感を抱けない若い世代が、それら「反戦映画」で描かれる戦争の残虐性、天皇の軍隊の非人間性、戦時下の市民の艱難辛苦などを、映画を通じて知ることも勿論重要だ。
  山口淑子(戦前の李香蘭)主演で知られる『暁の脱走』は、野間宏原作・山本薩夫監督の『真空地帯』(1952年)などと同様に、皇軍の非人間的性格を描くことによって戦争の愚かさを訴える、いわば日本映画に良くあるタイプの「反戦映画」なのだが、まずもって舞台を華中戦線の最前線におき、皇軍の非道さに反して中国八路軍が人間的に描かれているという点で、希有な日本映画といえる。
  しかも、田村泰次郎の原作小説『春婦伝』や黒澤明(!)の脚本の段階では、前線慰問団の女性達は歌手ではなく、朝鮮人の「日本軍慰安婦」(『ナヌムの家』の項参照)になっている。結局GHQの検閲官によって、朝鮮人慰安婦は慰問歌手に変えさせられるのだが、それでも制作者達が少なくとも日本の加害性を訴えようとしたことは、不十分であるにせよ、時代をみれば特筆に値する(のちにこの原作は鈴木清順監督の『春婦伝』に結実している)。
  日本軍は、決してアメリカの軍事力だけに負けたのではなく、中国や朝鮮に対して、人間的モラルの点でも敗北したのである。ここはかなり重要だ。

  舞台は、戦争も末期に差し迫った1945年、夏の華中戦線。ある県城を守備する歩兵一個大隊の話だ。
  八路軍の捕虜となり中国兵の温情により送還されてきた三上上等兵(池部良)は、同じく捕虜であった慰安団歌手の春美(山口淑子)と、禁じられた激しい恋に落ちている。
  上官にひたすら従順で生真面目な模範的皇国軍人である三上。しかし、粗暴な副官の成田中尉(小沢栄)は、その階級と権力にものを言わせて春美を手込めにしようとしていた為、部下の三上の存在を常々にがにがしく思っていた。
  書かれた報告書には「三上は、春美と情交をなし、その上、敵襲のあった夜、春美と共に脱柵を企て、敵陣に投降した」とある。勿論、成田の仕業だ。その罪状は「脱柵」「逃亡」「奔敵」「兵器遺棄」「通敵」……。「生きて虜囚の恥ずかしめを受けず」という戦陣訓のままに、三上は営倉へ入れられ、軍法会議へ送られようとしているのであった。
  春美は三上に逃亡することを説き、遂に二人は城外へ出る中国人農民に紛れて脱走を試みる。気付いた成田は直ちに射殺を命ずるが、部下の誰も言うことを聞こうとはしない。業を煮やした成田は、自ら城壁に登り、砂漠の逃げ走る二人を機関銃で射殺するのであった。
  三上の死亡を伝える現認証明書には、ただ簡単に「紅陵作戦に於いて、左胸部盲貫銃創を負い加療中、急性肺炎を併発し、昭和二十年八月九日、戦病死す」とのみ記されるのであった……。

  劇中にある、上官の「大体これだけの部隊の居る所に慰安所の一つもないということが土台無茶苦茶な話でなあ〜」という発言や、兵士達に酌を命ぜられた慰問歌手達の「私達は慰安婦じゃないのに」という返答からも分かるように、当時、「従軍慰安婦」の存在を観客も制作者も当たり前の常識とみなしていたことが、本作を観ると良く分かる。「従軍慰安婦」など居なかった、と妄言を吐き続ける、恥辱に塗れた右派連中、歴史修正主義者達の虚妄が浮かび上がる瞬間だ。
  そして、慰問団の女性達が戦争への疑問を時々口にするのも見逃せない。三上が、いくら成田に苛められようとも成田を上官として信じるのに比べて、女達の、勢い本音の覗く発言は人間的だ。厳格な軍規の中、男達が人間性を失い、自分の頭で考えるのをやめ、ただひたすら天皇の軍隊に身も心も奉仕する姿は、異様としか言いようがない。ここにあるのは、洗脳教育に弱い日本の男の特質である。
  『真空地帯』でも描かれる、上官による執拗ないじめと体罰。他国の戦争映画ではなかなかお目にかかれない、異様な光景だ。ここにこそ天皇を頂点に組織される日本軍ならではの特殊性がある。驚くべきことに、今でも自衛隊内でのいじめによる自殺者があとを絶たないということだ。
  上から与えられるストレスを、より弱い者をいじめることによって解消しようとする悲しき日本の精神風土。強者や多勢になびく者達が寄ってたかって、弱者へ対して「自己責任」と突き放す社会が、まさに今もここに厳然とある。

  「軍隊で、兵隊と靴下は消耗品といわれ、兵隊は猫位にしか考えられていないのです。こと死に関してはやはり人間である。一寸の虫にも五分の魂という言葉があるが、兵隊全体の暗黙の同意なしにただ命令だけでは、玉砕は成立しないと僕は思う。(中略)将校、下士官、馬、兵隊といわれる順位の軍隊で、兵隊というのは人間ではなく馬以下の生物と思われていたから、僕は玉砕で生き残るというのは卑怯ではなく、人間として最後の抵抗ではなかったかと思う。(中略)何という空しい言葉だろう、死人(戦死者)に口はない。僕は戦記物を書くと訳の分からない怒りが込み上げてきて仕方がない。多分戦死者の霊がそうさせるのではないかと思う」(水木しげる『総員玉砕せよ!』)