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キクとイサム
  (1959年 日本)
  監督: 今井正
  原題: KIKU TO ISAMU
  主要舞台: 日本
    発売元:新日本映画社
販売元:エースデュースエンタータインメント
商品番号:ADE0356
税込価格:¥4,935

  「平均すると七歳から八歳で、日本人であることを意識し始めるんだそうです。つまり、七歳以前ならみんな国際人です」
  こんな具合に、以前、永六輔が「無名人語録」(『週刊金曜日』連載)でナショナリズムをうまく言い当てていたが、まさしく「子供達こそ国際人である」という言いようは多くの示唆を含んでもいる。確かに、おとうちゃんとおかあちゃんがたまたまそこでエッチをした(孕んだ)、という偶然性だけで国家の帰属性(あるいは人種の帰属性)が決定されてしまうなんて、よくよく考えると実に野蛮なことだ。アメリカ合州国か、日本か、ヨーロッパか、北朝鮮か、イラクか、アフガニスタンか、東ティモールか、ソマリアか……、産まれ出た場所の偶然性で「命の値段」が決定されてしまうなんて、人類史上類例をみない奇妙な時代に我々は生きていると言える。
  例えば、毋親が子供を産む時に、「立派な日本人」として産まれて欲しいなどと思うか。例えば、皇太子夫妻が子供を産む時に、「立派な世継ぎ」として産まれて欲しいなどと思うか。勿論そのようなことはない。当然、ただ元気なかわいい赤ちゃんの誕生を望むことだろう。どんなに屁理屈を並べてみたところで、すべての人間が平等であることは、法則上逃れようのない事実である。
  それでは、「七歳以降」、「国際人」ではなくなってゆくというのであれば、そこにある、「国際人」であることを阻むものは一体何か。いかにして排他的帰属性が身につくのか。結局、学校教育であったり、家庭教育であったりするところの、大人の刷り込みがやってくるのだ。当然今ならテレビやマスコミ(あるいはコンピューター・ゲーム)の影響も大きいだろう。
  区別と差別を混同した大人の浅はかな知恵が、相も変わらずこの世界を覆っている。子供にとって、これは悲劇以外の何ものでもない。

  本作『キクとイサム』は、第二次大戦後、この日本で急激に増えた「混血」「ハーフ」の子供の受難を描いている。特にここで描かれているのは、白人(ヨーロッパ系米国人)ではなく、黒人(アフリカ系米国人)兵と日本人との間に産まれた「ハーフ」である。ただでさえ「ガイジン」なる蔑称をもってして外国人や異民族を排除する国民性。外見が誘い起こす蔑視もひときわだ。
  本作で今井正監督は、戦後まもなくの日本社会の排他的な精神風土がいかに彼ら「混血児」の心を傷つけてゆくのかを、ユーモアと愛に溢れた、冷徹なタッチで活写している。子役達ののびのびとした自然な立ち振る舞いがいい(キクの踊りや唄は特筆ものだ)。

  舞台は、1950年代後半、戦後十年強の時を経た、会津磐梯山の麓の寒村。占領軍の黒人兵と日本人との間に産まれた「ハーフ」の姉弟、キク(高橋恵美子)とイサム(奥の山ジョージ)は、毋方の年老いた祖母シゲ(北林谷栄)と共に暮らしている。父の所在は分からず、既に毋はこの世にいない。
  小学六年生のキクと小学四年生のイサムは、ともに村屈指の腕白。勉強よりも遊び、というタイプだ。特に姉のキクは、とても小学生には見えない体つきで、回りの好奇の視線もまったく意に介さない堂々たる態度。弟のイサムは、いつも腹ぺこで、盗み食いばかりしている。二人は、腰を悪くしているシゲの野良仕事を手伝ってもいる。
  初秋のある日、シゲは、医者に腰を診て貰う為、キクを連れ立って町へ。すると、町なかでも病院でも、人々の好奇の目がキクに集まるのだ。シゲから貰った十円で行商の雑貨屋から赤い櫛を買い、嬉しそうなキク。しかし、シゲは、医者からアメリカの家庭への養子縁組の話を持ちかけられ、田舎の排他的な村社会でのキクとイサムの先行きを案じ、悩むのであった。
  イサムは、学校でも秋祭りでも、友達から「クロンボ」と罵られ、やりきれない。遂に外務省からきた、アメリカの農園主に引き取られる話にも、実感のないイサムは乗り気である。
  しかし、いざ出発になると、イサムは急に不安になり、必死に泣きわめく。「おら、行くのヤダ!  姉ちゃーん、婆ちゃーん……」。キクは、号泣しながら、動き出す汽車を追い、夢中で走るのであった。引き離された姉弟。
  ある日、キクが子守をしていた近所の赤ん坊が行方不明になる。差別する同級生とやりあっていた隙の出来事だ。村中大騒ぎになるも、事態の大きさを把握していないキク。シゲは、思い余った挙げ句、殴りつけ怒るのであった。「お前は、やっぱり尼寺さ行け!」。赤ん坊は発見されたものの、この一件、孤独なキクには重過ぎた。キクは、納屋の梁から縄を吊るし、首吊り自殺を試みるのだが、重過ぎる体重に縄が切れ、間一髪で助かるのであった。その拍子に、初潮を迎えたキク。
  シゲは言う。「お前をどこにもやんねぇ。ばあさんと一緒にいてぇっつーなら、一人前の百姓になれ」。そして、登校する子供達がからかっても、「年頃だからな、おら。構ってやらねえじぇ、もう」と意に介さない、胸を張り鍬を担ぐキクがいた……。

  本作のリアリティは、苛酷な差別状況に喘ぐ訳でもなく、むしろそれに屈しまいと虚勢を張る、腕白な二人の姿にこそある。暗さや惨めさなど微塵もない、明るく堂々とした二人が描かれることによって、陰惨な日本的排他性はより際立つのだ。あまりに日常的で当り前に過ぎた差別の現状は、キクとイサムに、切ない程に、一つの生き方を選択させていたのであった。明るく、たじろがず、虚勢を張ってでも「負けない」、そんな逞しい生き方である。
  昨今の日本の、差別的な難民対策や排他的なナショナリズムの隆盛をみる時、本作の問いかけは、情けないことにいまだ有効であると言わざるを得ない。隣国を悪しざまに語るテレビのワイドショー。自慰史観に凝り固まった政治家の妄言。いや、もっと草の根レベルのものか。劇中に登場する、キクとイサムを取り巻く大人達の好奇の視線、厭らしい排他的な精神のありようが、確実に、現在の日本社会の風景にも繋がってあるのだ。
  人類数百万年の歴史上、「混血児」でない人間など地球上には存在しないが、何よりも、人間が平等であることはどうしようもなく自然の法則である。否定のしようがない事実だ。人為である以上、差別心は克服することの出来るものなのである。キクとイサムの強靭な視線は、おぼろな差別の根源を射貫きながら、そんなことを語ってもいた。
  なお、本作のシゲ婆さん役の北林谷栄。1959年の段階で、何でこんなに婆さんなんや、と思って観ていたら、なんと当時の実年齢が四十八歳!  どう見ても九十過ぎには見える。「永遠の若さ」ならぬ「永遠の老い」。いまだ健在、これぞ大女優である。脱帽。
  『キクとイサム』。観る者が逆に励まされるような、時代を超えた生命力溢れる名品である。必見!