オンライン魂花時報WELCOME TO NAKAGAWA TAKASHI'S WORLD中川敬のシネマは自由をめざす!リスト > ペッピーノの百歩
NAKAGAWA TAKASHI'S ALL CINEMAS GO FORWARD TO FREEDOM !
ペッピーノの百歩
  (2000年 イタリア)
  監督: マルコ・トゥリオ・ジョルダーナ
  原題: I CENTO PASSI(THE HUNDRED STEPS)
  主要舞台: イタリア
    発売元:樂舎
販売元:ポニーキャニオン
商品番号:PCBE-51397
税込価格:¥3,990

  ロング・ブーツのようなイタリア半島のそのつま先に、まさに蹴られんという具合に位置するシチリア島。この地中海最大の島、欧州最大の活火山エトナ山を有するシチリア島は、何と言っても、第二次大戦時の連合軍によるハスキー作戦(『戦火のかなた』の項参照)やマフィア発祥の地として広く知られており、ジュゼッペ・トルナトーレの故郷でもあることから『ニュー・シネマ・パラダイス』(1989年)や『マレーナ』(2000年)などの舞台にもなっているあの島だ、と言うと分かりやすいかもしれない。
  ヴィスコンティの『揺れる大地』(1948年)や『山猫』(1963年)、『シシリーの黒い霧』(1962年)、『シシリアの恋人』(1970年)、『ゴッドファーザー』(1972年)、『殺人長官』(1977年)、『カオス・シチリア物語』(1984年)、『グラン・ブルー』(1988年)などなど、あまたある「シチリア映画」は、確かに、その物語に必要とされる独特な風土・精神性、シチリアのもつ「マフィア」「因襲」「抵抗」「貧困」「雄大な自然」「古代遺跡」「辺境」といった抜けのいいキーワードによって、絶対的なイメージの独自性を獲得している。「シチリア映画」というだけで、何かそこには、映画にあるべき諸要素がふんだんに盛り込まれているような、そんなゴージャス感を与えてくれるのである。
  「(シチリアは)南イタリアの美徳と悪徳を高密度に抱え込んだ島」(レオナルド・シャーシャ)

  ここに紹介するのは、久々に登場した「シチリア映画」で、イタリアン・ネオ・レアリズモの伝統を強く感じさせる硬派な名品『ペッピーノの百歩』だ。1970年代のシチリアで反マフィア運動に取り組み、結果、暗殺されることになった実在の青年、ジュゼッペ(=ペッピーノ)・インパスタートの、短い生涯を描いた実話である。
  マルコ・トゥリオ・ジョルダーナは、昨今のイタリア映画界には珍しく、権力の腐敗を追及する映画を作り続けている反骨の監督で、本作に於いても、ロッセリーニやフランチェスコ・ロージのような緊張感溢れるリアリズムが、伝統的な古き良きイタリア映画の作風を思い起こさせる。

  舞台は、主人公ペッピーノ(ルイジ・ロ・カーショ)の幼少期(1950年代)から反マフィア運動に身を捧げるようになる青年期(1970年代)にかけての、シチリアのチニシ。
  ペッピーノの父は、チニシの街を牛耳るマフィアの首領ターノ・バダルメンティの部下で、しかも、ターノの家は彼らの家から百歩しか離れていない。ペッピーノは、まさしくマフィア・ファミリーの一員として幼少期を送るのだ。しかし、聡明で出来のいい息子であったペッピーノは、立派なマフィアになって欲しい父の意に反して、次第にマフィアへ対する疑念を抱くようになってゆく。
  時は1960年代後半。青年になったペッピーノは、時代の潮流の中、反体制運動にその身を投じている。彼は、仲間とマフィアを糾弾する新聞やチラシを発行し、海賊放送局を開設、街頭演説や電波を使った挑発的な言動でマフィアへの仮借無い糾弾を繰り広げるのだ。当然マフィアの一員である父が力ずくで黙らせようとするも、ペッピーノは、屈することなく家を飛び出し、母と弟ジョヴァンニの庇護のもと、より痛烈に反マフィア運動を展開させるのであった。
  高まる緊張の中、父が何者かによって殺され、ペッピーノは議員に立候補することを決心する。しかし、最後の選挙集会の直前、ペッピーノは死体として発見されるのであった。マフィアと癒着している警察は、当然ろくな捜査もせずに「自殺」と断定。いつの時代も市民は、横暴なマフィアと権力の腐敗構造に泣き寝入りせざるを得ないのである。
  しかしペッピーノは、少しではあったが巨岩を揺り動かしていた。街頭には、ペッピーノの死を悼み、マフィアと警察を糾弾する人々の、永遠に続くかと思われるような長蛇のデモの隊列があった……。
  ターノ・バダルメンティが殺人事件の主犯として起訴されるのは、ペッピーノが暗殺された1978年から十八年も後の1996年のことだ。

  多くのハリウッドやマカロニ・ウエスタンの「マフィアもの」と本作との決定的な違いは、家族一人ひとりに対する思慮深い描写にこそある。ありがちな、安易な残酷シーンを極力避け、ペッピーノは勿論、父、毋、弟の内面の葛藤をさり気なく描いてみせるところに本作の真骨頂があるように思われる。観る者は、ペッピーノの若い正義感のみならず、怯えながら生きる父、家族を等しく守ろうとする毋、鬱屈を抱える弟ジョバンニ、らの葛藤にも共感を覚える筈だからだ。
  印象的だったのが、都会からやって来た(と思われる)学生運動家に、ペッピーノが諭されるシーン。確か、こんな小さな田舎の問題にとどまらずもっと大きな運動を起こそう、というようなことを言われるのだが、ペッピーノは、議員に立候補することで、より現実的な生き方を選択するのだ。「アクト・ローカル・シンク・グローバル」を地で生きたペッピーノの強い信念は、だからこそ、人々の魂へと受け継がれていったのではなかったか。
  確かに『鉄人長官』にあったように、マカロニ・ウェスタンや西部劇のセンスで、マフィアと闘う勇敢な個人を描く作品もあるにはあった。しかし、本作にいるのは丸腰の市民であり、描かれるのは市民の団結である。悲嘆に暮れる毋がやおらデモの隊列に加わるラスト・シーンの力強さ。このシークェンスに、本作の語り継がれるべきすべてが凝縮してあるのだ。
  例えば、多くのいわゆる「マフィアもの」を観た後に本作を観るのもいいかも知れない。本作が「口直し」の役目を果たす「続編」のようにも感じられる筈だからだ(この原稿を書く為に「マフィアもの」を観まくった。疲れた)。
  ちなみに、劇中の映画はフランチェスコ・ロージの『LE MANI SULLA CITTA』(日本未公開)で、ニュース映像は「赤い旅団」によるアルド・モロ誘拐殺人事件(1978年)である。

「“マフィアは株式会社ではなく、犯罪組織である”ということを明白にすることは、私にとってとても重要なことでした。何よりも血によって結ばれた家族なのです。ターノは悪の化身ではなく、皆の同意を取りつける有力者であり、忠実な臣民であり、また同時に道化師なのです」(マルコ・トゥリオ・ジョルダーナ)

  「これは心に語りかけ、挑んでくるような作品だ」(フランコ・ゼフィレッリ/コリエーレ・デラ・セーラ紙)