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橋のない川<第一部>
  (1969年 日本)
  監督: 今井正
  原題: HASHI NO NAI KAWA-1
  主要舞台: 日本
    発売・販売:エースデュースエンタテインメント
価格:各4,935円(税込)
品番:〈第一部〉ADE0408 〈第二部〉ADE0409

  「人類の母性は、人以上の人を産まず、人以下の人を産まず」「“時間”の流れの前に人間は皆平等です」「一定の時間がたてば、どんな子供も大人になっていく。そして、その大人もやがて年を取って死にます。小さな芽が大木に育って、そして子孫を残していずれ枯れる。その営みはすべての時間の前に平等なのです。皇室も私たちも、男も女も時間の前では平等のはずです」「戦争というのは人間がくわだてるものだから、自分たちの意志でつぶすことができるんです」(住井すゑ)

  座右の書とでもいえばいいのか。俺にとっての「人生の一冊」といえば、何度もあらゆる場所で触れてきたが、住井すゑの『橋のない川』(全七巻)ということになる。周知の通り、この大河小説は、明治から大正昭和にかけての奈良の被差別部落の少年の成長を描いた抵抗文学であるが、同時に、農民文学としても児童文学としても、その微細な労働生活の描写やダイナミックで美しい自然の描写によって、まさしく他の追随を許さない「世紀の書」と言って差し支えない圧倒的な一冊(七冊)である。
  1902年1月7日、奈良県磯城郡平野村(田原本町)に生まれた住井すゑは、六歳の時、耳成山の陸軍秋季特別大演習にやって来た明治天皇のババ(糞)を、ある百姓が行在所跡で見つけて家宝にしているという話を聞き、「なんや天皇さんかてババをするんや」と知り、人間が平等であることを悟った。すゑ自身は木綿の製造業と農業の家庭で育ったが、そこは大和盆地、歴史的に激しく「貴賤」の交錯する、天皇制の厚化粧に加えて被差別部落の多い地域である。多感な時期に「貴賤」の不条理を悟ったすゑは、早くも八歳の時、大逆事件で処刑された幸徳秋水の反戦平等思想に共鳴するのであった。
  「私が小学校三年の時です。あの事件は1910年、明治43年でしたね。幸徳秋水、名は伝次郎という極悪人の一味が天皇に対して謀叛を起こしたと、学校の朝礼で校長が話した訳ですが、なぜ極悪人かというと、幸徳秋水は国の富を国民に平等に分配しようと言ったから……、というくだりで、私はびっくりしてね。そんな素晴らしい人がこの世にいたのかと。この世の富を皆に平等に分配する、それを私は子供心に願っていたのです。それを実行しようとした幸徳は神様みたいな男だととっさに思ったですね」(住井すゑ)
  大正デモクラシー、雑誌記者時代、無産婦人芸術連盟の活動、農民文学作家の夫犬田卯との自給自足の生活、病弱な夫の看病、児童文学作品や短編小説の執筆活動、戦争、などを経て、夫の死(1955年)ののち、五十六歳のすゑが命懸けのライフワークとして選んだテーマが、被差別部落、水平社運動、天皇制であった。小説『橋のない川』の始動である。
  1961年(五十九歳)から1973年(七十一歳)の間に第六部まで発表され、一応の完結をみるが、ヒロヒトの死ののちも天皇制の継続するをみて再執筆を決意、九十歳(!)になった1992年に第七部を発表した。「天皇制がなくなるまで『橋のない川』を書く」というのが彼女の口癖であったが、デスクの上に「『橋のない川』第八部」とのみ書かれた原稿用紙を残して、1997年6月16日、九十五歳で亡くなった。
  彼女の逝去を新聞で知った時、我々ソウル・フラワーはモノノケ・サミットの2ndアルバム『レヴェラーズ・チンドン』の制作中で、そこには<水平歌>が含まれていた。実は、CDが完成次第、彼女の住む牛久沼の抱樸舎にソウル・フラワーのCDを持って行き、『橋のない川』から多大なインスピレーションをいただいている旨を直接伝えるつもりであったのだ。今でも<水平歌>を歌うたびに、その詩に込められた憤怒の絶唱の輪郭だけでもなぞることが出来るのは、ひとえに『橋のない川』で描かれた微細な人間描写によるところが大きいように思う。
  そして何よりも、語る彼女には並外れたセンスとユーモアがあった。明確な問題の本質を、深遠な哲学を、子供にでも分かるような調子で伝える縦横無尽な語り口は、反戦、反差別、国家の虚構性、に対する、人生を賭けた並々ならぬ決意のなせる技であったように思うのだ。古今東西「ホンモノ」はおちゃめである。是非共『橋のない川』は勿論、『夜明け朝あけ』『向い風』などの小説や、数多く出版されている彼女のエッセイやインタヴューにも触れて欲しい。おちゃめに天皇制や差別構造のバカバカしさをぶった切る住井すゑの圧倒的パワーは、病みゆく現代人類社会の、何よりもの処方箋となり得よう。
  雑誌記者(講談社)時代、社員の待遇改善を訴えるすゑに対し、野間社長は言った。「女は毎月、メンスの為に休むから月給には出来ないし、休むから安くていい」。その言葉にすゑは、「そうですか、女がメンスをみなくなったら国がつぶれますよ」と返し、会社を辞めるのであった。すゑ十八歳、時は1920年である。
  「あんなに知的で、しかも女性的で母性的で、ちょっと他に類を見ない怪物(笑)」(俳優・佐々木愛)
  「住井さんは、大の男でも恐れなければいけないようなテーマに、何も恐れることなく、そして書かなければならないという、何か火の玉みたいなもので突き進んで行った」(作家・澤地久枝)

  で、映画版『橋のない川』である。
  二度映画化されているその一度目は、今井正監督によるもの。1969年と1970年に、第一部と第二部に分けて制作、公開されたものだ。この「今井版」の第二部は、「差別映画」であるとして、部落解放同盟や共闘団体が糾弾・上映阻止運動を起こした、いわくつきの作品である。
  そして二度目が、1990年に部落解放同盟が企画した東陽一監督によるもの。公開当時、長篇の原作に感動した勢いで観たので、この「東版」の「軽さ」には随分ガッカリさせられたものだ。迫力のない差別シーン。にも拘らず、ひたすら連発だけはされる「エタ(穢多)」の蔑称。説明的に羅列されるのみの逸話。原作にはない安っぽい恋愛譚……。そして、「えっ、これでもう終わり?」ってな具合に、ぶった切るようにあっさりと終わってしまうのである。
  長年、気にはなりながらも「今井版」を観る機会もなく、原作の圧倒的な深みとの比較による映画版の物足りなさ、だと納得させられていたこの「東版」であったのだが、遂に「独立プロ名画特選シリーズ」として「今井版」が DVD発売。何のことはない、「今井版」『橋のない川』は力強い社会主義リアリズムの名品であった!
  良かったのは第一部の方。当時、部落解放同盟に問題視された、部落描写の暗さや差別に屈する部落民の態度、飲んべえの永井藤作(伊藤雄之助)の演技などが、実にリアルで、非差別者の置かれた苛酷な立場がグイグイ観る者に迫ってくるのだ。
  酷い差別がまかり通っていた時代(今もある)、部落解放同盟が映画に「同和啓発」としての「部落民の強さ」を求めたのも、今となっては分かる。関係者から聞いた話では、「日共系の映画監督に部落解放の良い映画が作れる訳がない」というような、芸術表現など何処吹く風の、党派的対立も上映阻止運動の根底にはあったようだ。
  プロデューサーから依頼されてから原作を読んだ東陽一とは違い、1961年、原作刊行後すぐに映画化の為に駆けずり回った今井正の、そのモチベーションの差がそのまんま作品の差に表れているともいえるだろう。とにもかくにも、今こそ「今井版」『橋のない川』、しかるべき再評価が必要である。

  第一部のあらすじはこうだ(原作は必読。よってここでは手を抜く)。
  舞台は大和盆地にある小森部落。他の被差別部落同様ここでも、充分な田畑など望みようもない部落民の僅かな収入源は草履づくりであった。日露戦争で父を亡くした畑中誠太郎、孝二の兄弟は小学生。学友や教師から理不尽な差別を受けながらも、毋ふで、祖母ぬいの力強い生き方が兄弟を逞しく育てていた。
  祖母ぬいが校長へ抗議にゆくシーンは、北林谷栄の迫真の演技が胸を打つ。「わいら生まれてこの方、世間の人からエッタ言うて人間扱いされんと来ましたんや。せやけど、わしらかて人間や。手も二本、足も二本ありまんがな。指かて、見ておくなはれ。せやけど、世間の人はわいらをエッタ言うて、けだもんみたいに言いまんねや。なんぼ自分で直そ思うてもエッタは直せまへん。校長先生、どねしたらエッタが直るんか教えとくなはれ!」
  尋常小学校を卒業した兄の誠太郎は大阪へ奉公に。弟の孝二は六年生だ。ある日、小森部落が火事になり、小森であるが故に在所の消防団が取り合わず、瞬く間に大火事になってしまう。火事の原因は、永井藤作の息子武が空腹の弟の為に豆を炊こうとしたことにあった。武はその夜自殺。藤作は、悲しみに暮れながら、小森にも消防ポンプを買うことを決意するのであった。
  1912年(明治45年)明治天皇大葬の夜。孝二が秘かに好意を寄せている同じクラスの杉本まちえが、黙祷の時に孝二の手を握ってきた。天にも飛び上がらんばかりに喜ぶ孝二。しかし後日、まちえの真意が分かる。友達から「エッタの手は冷たい」と聞かされ、好奇心で孝二の手を握ったのであった……。

  (『橋のない川<第二部>』の項へ続く)