<アリラン>は、19世紀中頃から朝鮮半島で最も広く歌われている民謡だ。朝鮮半島中に五十余種(歌詞は二千以上)もの地方的変種があり、<密陽アリラン><珍島(チンド)アリラン><キーンアリラン><江原道アリラン><京畿道地方のアリラン>などはその代表格。「アリラン」の語義は諸説あり定かでないが、いずれにせよ、捨ててゆく愛する者に対する愛惜、未来に対する絶望と希望の絶頂としての「峠」が歌い込まれ、またその行間には、李王朝の圧政や苛酷な日帝支配に対する民衆の抵抗精神が深く刻み込まれているのである(ソウル・フラワー・モノノケ・サミット『レヴェラーズ・チンドン』ライナーノーツ参照)。
ソウル・フラワーが頻繁に演るのは<京畿道地方のアリラン>で、1926年、日帝支配下の朝鮮で爆発的大ヒットになった映画『アリラン』(ナ・ウンギュ=羅雲奎制作・監督・主演)によって広く知られるようになったヨナ抜き長調のもの。ここ日本でも、長谷川一郎&淡谷のり子による<アリランの唄>(1932年)としてまずレコード化され、数ある<アリラン>の中でも世界的に最も有名な旋律として知られている。
「映画のラストシーンで、羅雲奎扮する永鎮が手縄をかけられた姿で日本人の巡査に引かれアリラン峠を越えてゆく、まさにクライマックスの場面で、童謡歌手李貞淑によって歌われた。この時、観衆は<アリラン>を李貞淑と合唱し、映画館は興奮のるつぼと化し、臨席の日本人巡査がいくら制止しても遂に合唱はやまなかったという。(中略)観客は亡国の悲しみを身に染みて感じながら、永鎮と一体になって熱い涙を流したのである」「朝鮮総督府が、<アリラン>の禁唱令を出したり、<アリラン>のレコードを押収するなど、力ずくでねじ伏せようとしたが、弾圧すればするほど、弾圧が強ければ強いほど、<アリラン>は逆に名もない雑草のように朝鮮民族の心深くに刻み込まれていった」(宮塚利雄『アリランの誕生』)
現時点では、伝説の映画『アリラン』を観ることは不可能だが(※)、素晴らしい<珍島アリラン>を「体験」出来る韓国映画の名品がある。韓国映画のもはや古典、巨匠イム・グォンテク(林權澤)の『風の丘を越えて<西便制>』だ。
西便制(ソピョンジェ)とは、朝鮮の伝統的演唱芸能パンソリの一流派。全羅道(チョルラド)を分ける川ソムジガンの、以東で栄える流派が東便制(トピョンジェ)、以西で栄える流派が西便制である。
「東便制が丹田から沸き上がる勇健清遠な“羽調”に基づくのに対し、西便制は喉舌歯牙のあいだから出る哀怨凄絶な“界面調”を主とする」(野崎充彦『朝鮮の物語』)
パンソリを携えた放浪芸一家を取り巻く、社会の差別構造、時代の変遷、窮乏生活、親子の愛憎を、ダイナミックに、感動的に描く本作の魅力は、何よりも、実際のパンソリ歌手である俳優陣オ・ジョンヘ(ソンファ役)、キム・ミョンゴン(ユボン役)らの唄の圧倒的な素晴らしさに集約される(吹き替えなし!)。
舞台は、1960年代初頭、朝鮮戦争後の復興ままならぬ韓国全羅道。
山間の寒村に三十代の男トンホ(キム・ギュチョル)が辿り着く。生き別れになったままの養父ユボンと姉ソンファを探しているトンホは、姉からパンソリを教わったという女から、パンソリの名手にする為に父が姉を失明させた、という話を聞くのであった。父は死に、その三年後、姉は一人そこを立ち去ったという。
そしてここからはトンホの回想だ。
日帝時代にパンソリの大家の後継者と目されていたユボンは、師匠の愛妾との密会が発覚して破門され、その後はパンソリの旅芸人として、村から村へ渡り歩いて、放浪の旅芸を続けていた。
ユボンはある村で知り会ったトンホの母と旅を始めるのだが、彼女は身篭もった子供とともに合併症で死んでしまう。残されたユボンと養女(孤児)のソンファ、幼少のトンホの三人は、血の繋がらない家族ながら、旅回りの一家として、村から村へ、渡り歩くのであった。
パンソリが人生のすべてであるユボンによる、ソンファとトンホへの苛酷なパンソリ指導が始まる。おかゆをすするだけの窮乏生活。常民による仮借なき差別。世の移り変わりから疎外されゆくパンソリ……。
時は流れ、十代になっているソンファとトンホ、そして父ユボンが、ひなびた田園地帯の田舎道を楽しそうに歌いゆく、長回しのロング・ショット・シーンが実に感動的だ(後述の<珍島アリラン>のシーン)。厳しい上に、酒浸りで自分勝手な養父ではあるが、ソンファとトンホにとっては唯一人の父でもある。家族の絆、ひいては受難続きの朝鮮民族共同体の「泣き笑い」を暗示する、不朽の名シーンだ。
ある日、トンホは言う。「こんな暮らしを続けて何になる。唄を習っても馬鹿にされるのがオチだ!」。ソンファが答える。「でも私は唄が好き。すべてを忘れて幸せになれるもの」
しかし、頑固一徹な父の横暴、貧困に耐え切れないトンホは、意を決し、二人から立ち去る。絶望に打ちひしがれ、歌えなくなったソンファ。残された彼女に賭ける父は、彼女のパンソリに「ハン(恨)を刻み込む」為、薬(ブシ)を大量に飲ませ、彼女から光を奪う(失明させる)のであった!
歳月は流れ、ソンファを探し村々を訊ね歩くトンホ。そして遂に、ある木賃宿で二人は再会する。
向き合った、名乗り合わない二人……。盲目のソンファは、トンホの太鼓伴奏に合わせ、渾身のパンソリ<沈清伝>を夜通し歌い上げる。そして早朝、二人は、名乗り合わないまま、静かに別れるのであった。
「唄が太鼓に重なった時、弟だと分かりました。父の太鼓にそっくりでした。(黙って別れたのは)ハン(過去)に触れたくなかったから。私達は、昨日、ハン(恨)を越えました」
本作で最も重要なキーワードは「ハン(恨)」だ。朝鮮民族の心性を語る際、必ずや避けて通ることの出来ない「ハン(恨)」の一字。本作の中で、字幕訳者が気を利かせて、場面により「ハン」に当てる漢字を変えていたが(「恨」「情念」「過去」などなど)、まさにこの「ハン(恨)」に込められた感情のカタチの解説は、一筋縄ではいかない。積もり積もってゆく「記憶」「泣き笑い」「恨み」「嘆き」「望み」「情念」「魂の交感」、それらすべてを含み込んだ、「生きるということそのもの」が「ハン(恨)」なのである。父ユボンが遺言として残した唯一の言葉は、「恨に埋もれず、恨を越えろ」であった。
本編中頃、流浪の途上のあの有名な5分40秒の長回しシーン<珍島アリラン>。そしてクライマックスの姉弟再会シーン<沈清伝>。何度観ても、これらの、フィルムをはみ出さんばかりの圧倒的な「声」には、胸が熱くなる。地を這う哀歌が「歓喜の唄」に変わらんとする、まさに魂の飛翔の瞬間である。
ここ日本列島にもあまたあったであろう、地下水脈のごとく歌い継がれてきた唄、被差別芸能民達による人生を言祝ぐ唄、に思いを馳せ、「歌う」という行為の原点へ連れ戻してくれる映画として、本作は俺の記憶の奥底にへばりついてある。音楽に携わる者の、当然の通過儀礼として、本作『風の丘を越えて<西便制>』はあるのだ。
なお、本作は、五人に一人が見たと言われる程の韓国映画史上空前の大ヒット作で、上映後、若者の間に一大パンソリ・ブームを起こし、しかも、オ・ジョンヘの一重瞼が新たなトレンドになり、若い韓国女性の二重瞼の整形手術が激減するといった珍現象まで呼び込んだということだ。
「外国の文化や芸能を模倣するのに夢中だったインテリ層や若者達が、真に失ってはならないものに気付いてくれた」(キム・ミョンゴン)
「彼ら(主人公)は、誰かに自分の存在を知ってもらうことを望んで芸の道を歩んでいる人達ではありません。実に、彼らは、生と死を無限に拡張させながら、その中で多義的かつ多様な宇宙を作り出す人達なのです。彼らは、世の中の秩序の中に生きながら“恨”を抱き、そして、その“恨”を受け止めながら、より大きな宇宙の秩序を作り出します。それこそが、世の中に対する憎悪から許しを学ぶ方法なのです」(イム・グォンテク)
(※)植民地時代に流失した映画『アリラン』、見付かるか?
→japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2005/02/11/20050211000097.html
羅雲奎のシナリオに忠実な2003年製作の同名リメーク版がもうすぐ公開
→d.hatena.ne.jp/stickyfilms/2005031
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