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永遠(とわ)の語らい
  (2003年 ポルトガル=フランス=イタリア)
  監督: マノエル・ド・オリヴェイラ
  原題: UM FILME FALADO(A TALKING PICTURE)
  主要舞台: ポルトガル
    『永遠の語らい』
発売・販売:ナド・エンタテインメント
販売代理:ケイエスエス販売
DVD税込価格¥4,935

  ポルトガルの巨匠マノエル・ド・オリヴェイラ。1908年生まれ(現在九十六歳!)ということだから、ほぼシネマトグラフ百年の歴史を体現していることになる。サイレント時代(!)に監督デヴュー作『ドウロ河』(1931年)を発表。世界最高齢現役監督であることはほぼ間違いないだろう(他に誰がいる?)。
  「老いてますます盛ん」とは言うが、八十を越えてからのオリヴェイラの多作ぶりは目を見張るものがある(90年代以降の名品の数々は近年DVD化が進んでいる。必見だ)。ほぼ年一作の驚異的ペースはここ十数年しっかりと守られており、現在早くも新作に取りかかっているということだ。一体どうなっとるんや!じいさん!(人生の最初の六十年に長篇映画二本!  一般的ペースになるのは六十代も半ばに差し掛かった頃からだ)。
  運命の女を描いた『家宝』から僅か一年、オリヴェイラ九十五歳(!)の充実最新作が本作『永遠(とわ)の語らい』だ。本作は、リスボン大学の歴史学者の母と七歳の娘が、インドにいるパイロットの父と会う為に、各地の歴史遺産を観光しながら、地中海からスエズ運河を抜ける船旅に出る、というストーリー。そしてそこにあるのは、(キリスト教世界から見た)歴史の源流、神話時代への旅、或は、喜望峰経由で新インド航路の開拓を目指したバスコ・ダ・ガマへの目配せである。オリヴェイラには、ポルトガル人として、現代社会を形作った大航海時代・植民地時代への自省もあるかもしれない。本作は、「9・11」以降、よりあらわになった「文明衝突」の当節に向き合ったオリヴェイラなりの返答なのだ。
  無骨な長廻しのカメラが捉えるのはコミュニケーションの手段としての「会話」「語らい」だ。前半の、ゆったりと進行する船旅、繰り返される近似した史跡来訪シーンは、観る者に独特な酩酊感を与えるのである。
  ポルトガル、スペイン、フランス、イタリア、ギリシャ、トルコと、地中海を東方へ抜ける航路は、そのまんま、西欧文明にとっての「帰郷」でもある。カトリックである毋とギリシャ正教神父との会話、トルコの大聖堂がモスクに変わった中世トルコの話、などを興味深げに聞く娘は、道中で幾度となく毋に質問するのである。「どうして戦争をするの?」と。そしてトルコを越えたあたりで、歴史学者の母による「キリスト教史観」の解説はトーンを落とし始めるのだ。そう、そこはアラブ世界。既に西欧歴史学者の目前には「過去」ではなく「現代」が横たわってあるのである。

  あらすじはこうだ。2001年7月(「9・11」の寸前という設定だ)、七歳の少女マリアは母親のローザ(レオノール・シルヴェイラ)と、インドのボンベイにいるパイロットの父親と会う為、地中海を巡る船旅に出発する。この航路は、歴史学者のローザにとって、本の中でしか知り得なかった「歴史」への出会いでもあった。ポルト、マルセイユ、ポンペイの旧跡、アテネ、イスタンブール、エジプトのピラミッド。それは、キリスト教圏の人間にとって、ヨーロッパ文明を遡る、遥かなる時空の旅でもあるのだ。
  ポルトガル大航海時代の全盛を伝えるバスコ・ダ・ガマ像にベレンの塔。フランス革命を伝えるマルセイユでの会話。火山の噴火によって滅びたイタリア・ナポリの古代都市ポンペイ。古代ギリシャの神殿や円形劇場。中世、地中海を席巻したイスラム教徒によってモスクにされたイスタンブール(コンスタンティノープル)の聖ソフィア大聖堂。カナンの民によって建設されたエジプトのピラミッド、などなど……。寄港地の史跡を前に、ローザはマリアにオデュッセウスの物語やローマ神話を語って聞かせるのだが、当然マリアにとって理解不能な「戦争の歴史」がそこにはあった。「人間ってどうして戦争をするの?」
  アラブ圏に入り、紅海を抜け、イエメンのアデンを出港した船上のとある夜。マリアとローザはアメリカ人の船長(ジョン・マルコヴィッチ)と知り合い、夕食の席へ招かれる。そこに同席するのは、起業家のフランス人デルフィーヌ(カトリーヌ・ドヌーヴ)、元モデルのイタリア人フランチェスカ(ステファニア・サンドレッリ)、女優で歌手のギリシャ人ヘレナ(イレーネ・パパス)といった、異国籍のセレブ女性達。彼女達は、各々自国の言語で喋り、かろうじて会話を理解し合える関係である。テーブルには、キリスト教圏に住む者同士の(EU圏でもある)、言語の壁を越えた愛や人生の語らいがあった……(衝撃のラスト・シーンはここではあえて書かない。観ておくんなさい)。

  衝撃の結末ののちに残る深い余韻の中(俺の場合「口あんぐり」)、我々観る者は、船上での多国籍な進歩的文化人達(好人物達である)の微笑ましい交流に、決定的に欠落していたものが何か、思い巡らせることとなる。
  アラブ圏を通過する豪華客船の客人の殆どが白人であったこと。なおかつ夕食に同席した多国籍な人々が、各々「文明・西欧史」を象徴していたこと(ギリシャ人=古代文明、イタリア人=ローマ帝国、フランス人=神聖ローマ帝国・革命、アメリカ人=現代のバビロン、ポルトガル人=大航海時代)。マリアが客室へ取りに戻った人形(船長がアデンで買ったプレゼント)がアラブ衣裳を纏っていたこと。アデンでは毋娘の史跡巡りがなかったこと(歴史学者のローザはアラブ世界を如何に解説しただろう?)。キリスト教圏の船旅(前半)が船外中心で、アラブ圏以降の船旅(後半)が船内中心であったこと、などなど……。
  そう、夜の紅海をひた走る船上の西欧人達に、真っ暗闇のアラブ世界はついぞ見い出せなかったのだ。「文明を語るテーブル(永遠の語らい)から排除されていた者達は誰だったのか?」と(多分)問いかけるオリヴェイラは、自省も込めて、西欧リベラルの「寛大なる理解」の限界を巧みに突いているのである(我々日本人も人ごとではない)。
  また、物語の最終寄港地がアラビア半島最南端イエメンであることも示唆的だ。地理的に、ヨーロッパ思想のマージナルな限界点を暗示してもいる。「語らい」なき衝突の世界(「9・11」以降浮上してきた世界)を憂える、老功なるメッセージが本作には込められているのだ。
  静謐で豊穣な地中海の旅も、あまりに唐突な結末も、周到に敷き詰められた伏線の上に成り立っていたことが良く分かる。本作は結末から「始まる」映画なのである。一世紀を生きた巨匠の問いかけ、危急のメッセージをしっかりと受け止めたい。

  「これまである一定の方向に進んでいた西洋文明が、“9・11”のテロ以降、別の方向に向かい出したのではないだろうかと思います。“9・11”は、今まで続いてきた西洋文明に終止符を打つものではなかったのか。太古、中近東やインド、ギリシャから複雑に歩んできた西洋文明が、別のシステムに取って代わる。西洋諸国にとってそれは簡単なことではありません。そんなことを考えながら本作品のアイデアを思いつきました」「観客が、映画を観ながら感情だけではなく理性も動員しながら参加出来るような作品にしていきたい、つまり観客の感情だけではなく理性をも納得させたい、そういった作品を撮りたいと思っています。派手な作品であれば人は振り向きますが、それらには、実は魅力もなければ深さもありません。観客はおそらくそのようなものに値しない。観客とはもっと素晴らしいものに値すると思うのです。私の映画が、観客に何かそれ以上のものを伝えられるものであって欲しいですし、そして、そこでまた観客が、それぞれのアイディアや考えを付け加えていけるような作品でありたい。その為に作品はシンプルでなければならないと思っています」(オリヴェイラ)

  「九十五歳で、オリヴェイラは世界を認識する。もう、これ以上認識する必要がないほど。本作はもはや衝撃である」(リベラシオン紙)