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わが青春のフロレンス
  (1970年 イタリア)
  監督: マウロ・ボロニーニ
  原題: METELLO
  主要舞台: イタリア
   

  19世紀後半、マルクス主義の登場、機械文明の発達による労働者達の危機感を背景に、ヨーロッパ市民の階級意識への目覚めは、永年不当搾取し続けてきた資本家達をジリジリと追い詰め始めた。それは労働者にとって、言いなりの時代、奴隷の時代の終焉であった。
  19世紀末から20世紀初頭のイタリア、花の都フィレンツェ(英語名はフロレンス)を舞台にした本作は、一人の孤児が、資本家と闘い、投獄、恋愛を通し、労働運動の闘士として人間的に成長してゆく姿を描いてゆく。
  コスチューム映画の巨匠マウロ・ボロニーニ(『愛すれど哀しく』『哀しみの伯爵夫人』『薔薇の貴婦人』)ならではのノスタルジックな映像は、風光明媚な中世芸術都市フィレンツェの魅力をいかんなく引き出し、硬派な語り口調ながらも本作を優れた青春ドラマにしている。タヴィアーニ兄弟やトルナトーレなどの作品に引き継がれる、一人の人間(と取り巻く人々や街)の成長過程を時代の流れとともに描き出す、イタリア映画独特の作法、醍醐味が圧巻だ。

  冒頭は1988年。出獄する男と出迎える女。女は「メテロ」と名付けた赤子を抱いている。男はアナーキストで、度重なる投獄をものともしない筋金入りの革命家だ。「メテロなんて普通の名ではなく、革命家の子供らしく、リベロ(自由)とかにしろ!」。
  しかしその夜、生活苦と出産疲れによりその女は急死し、数日後、砂取り人夫として働くその男もアルノ川の氾濫で濁流に呑まれて死んでしまう。孤児になったメテロは、田舎の親族へ預けられ育てられることになるのであった。
  1905年、十七歳になったメテロは、不景気の為にベルギーへ移往する一家を離れ、一人、生まれた街フィレンツェへと戻る。
  ある日、メテロに煉瓦工の仕事を探してくれた、父の友人でアナーキストのベットが酩酊状態のまま姿を消した。捜しに出たメテロは、監獄へ行き、ベットの名を喋っただけで投獄されるハメになる。同じ房にいた「政治犯」がメテロに父のことを語る。「マルクスを知っているか?  無政府主義よりも社会主義の方が現実的だ。君の親父は立派な男だった……」
  未成年で無実のメテロは、即釈放されて職場復帰。やがてやって来た三年の兵役も終え、身も心も逞しく鍛え上げたメテロは、社会主義者として組合活動に力を入れるのであった。
  人員整理のゴタゴタの中、職場の仲間が現場の梯子から落ち、「死んだら組合の旗と一緒に弔ってくれ」という言葉を残して息を引き取る。葬式。赤旗。不当弾圧。再投獄……。獄中からメテロは、葬式の時に出会ったエルシリアに求婚する。「手紙をくれと言ったので書きました。よく留置所にいた父にも書いたものです」。エルシリアは、父も投獄を繰り返す闘士であった為に、資本家による不当搾取、権力による不当弾圧を、身をもって理解していたのであった。そして、晴れて出獄したメテロとエルシリアは結婚し、出来た子供に「リベロ」と名付ける。
  メテロは組合のリーダー格となり、最低貸金を要求する運動はフィレンツェ中に拡大、遂にストライキが宣言される。これは20世紀初頭の伝説的争議でもある。メテロ達の職場もストライキに突入する。造花の内職で夫の活動を支えるエルシリア。隣の人妻イディナと関係を持ってしまうメテロ……。
  一か月が過ぎ、スト基金も底をつき、収入を断たれた労働者達は疲弊する一方。当然資本家の謀略に日和る者も出てくる。そして遂に対決の時がやって来る。対峙する資本家と労働者。社長がメテロに言う。「初めて雇ってやった時はまだ子供だったが……」。メテロが返す。「父の時代は労働者が弱すぎたから搾取が簡単だった。だが今は違う!」。乱闘。発砲する軍隊。しかしその時、資本家側が労働者達の要求に折れ、ストライキ中止の一報が入る。労働者達が初めて自らの闘いにより勝利した瞬間だ!
  騒乱罪で再び獄中へ入るメテロ。六か月の収監生活を終え出獄するメテロを、身重のエルシリアと息子が出迎える。「もうこの中へは絶対入らない、誓うよ」「いいわよ、父の誓いと同じだわ……」

  相似する冒頭とラストの出獄シーンは、世代を越えて繰り返される闘争の円環を浮上させる。イデオロギーを越えてなお今も歴然とあり続ける階級闘争の現実である。
  本作に於いても、労働者の前にふてぶてしく横たわる権力の搾取構造は、親子二世代にわたり、変わることなくある。しかし、メテロの父と毋、メテロとエルシリアの「有り様」の差異が示すのは、小さい歩幅ながらも確かに「前進」なのである。
  無数にあったであろう勝ち取った「小さな前進」を、歴史から学ばずに、「現実的でない」と反古にしたり、あざけったりするのもまた愚かな人間の所業である。組合。ストライキ。普通選挙制度。人権。福祉……(今の日本なら勿論憲法もある)。「その一票」の為に無数の人々が闘い、また、今も血が流されていることに思いを馳せたい。「平和」や「自由」や「平等」は与えられるものではなく、求め続けること自体の中にこそあるのだから。
  しつこくしつこく世界中でこういった映画が作られ続けていることに、まずは乾杯だ。

  ……と、ここまで書いてくると、やはり日本商業映画の低落ぶりに思い至らざるを得ない。自由民権運動。大逆事件。水平運動。普選運動。天皇権力の弾圧。安保。在日。アイヌ。ウチナー……。底辺からの視線を貫くような「歴史映画」の不在を、我々は何と捉えれば良いのだろう(時代劇を含め、権力者、あるいはその下僕の美化ばかりだ)。何も俺がここで言おうとしていることは「社会的な作品を作れ」とかいうようなつまらないことでは、勿論ない。映画や音楽は、その「登場」以来ずっと、個人と集団(国家)の相剋から立ち上る小さな魂の絶唱や鼻唄を捉え続けてきたし、またそうしたものとして、我々一人一人の「詩」にも豊かなグルーヴへの想像力を与え続けてきたのではないか、というようなことだ。確かに映画は、音楽と違い、資本との関係抜きには成立し得ない、ということも勿論充分理解はしているが(ええ作品作ろう思たら金かかるもんねぇ、ホンマ)、この現状はあまりにも情けないのではないか、日本の映画人達よ。巨匠達は勲章もろて喜んでる始末やし……。嗚呼〜。若松(孝二)さん、そろそろブチかましてえや!
  (「日本商業映画」と書いたのは、勿論「自主制作映画」には観るべきものが多いからだ。優れた日本のドキュメンタリー映画を数多く販売している「ビデオ・アクト」のサイトをここに紹介しておこう。www.videoact.jp