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ミツバチのささやき
  (1973年 スペイン)
  監督: ビクトル・エリセ
  原題: EL ESPIRITU DE LA COLMENA (SPIRIT OF THE BEEHIVE)
  主要舞台: スペイン

  「(オーディションのカメラ・テストで)“フランケンシュタインって誰だか知ってる?”と聞きました。彼女(アナ・トレント)は“ええ、でもまだ紹介してもらってないの”と言いました(笑)。この返事で彼女の感性に対する疑念は何もなくなりました。彼女はフランケンシュタインを知っていましたが、実在していると信じていましたし、そして、そのことが大切な要素でした」(ビクトル・エリセ)

  本作『ミツバチのささやき』が長篇処女作である監督のエリセは、主役探しの為に訪れたマドリッドのキリスト教系の小学校で、校庭の砂場で一人ポツンと遊ぶアナ・トレント(当時六歳)に「一目惚れ」し、即、本作の主役を決めた。現実と幻想の狭間で揺れる、聖なる魂の通過儀礼。本作のもつ崇高な主題を、軽々と乗り越えるヒロインの誕生であった。エリセが主役のアナと姉役のイサベルを見い出せた段階で、本作の成功は約束されたようなものだ。
  「アナとイサベルの違いは……イサベルはフランケンシュタインがフィクションであると理解しています。しかし、アナに嘘だとは言いません。大人の言葉を理解した上での演技をしているのです。そのことが自然に出来るということは驚嘆に値することだと思います。アナは“イサベル以前”の意識です。つまり、いまだ大人の世界の入口には入っていません。社会の境界にいる状態であり、いまだ野生の人物であるのです。つまり、彼女の言葉は真実なのです。唯一アナが精霊を呼ぶことが出来、(精霊が)目の前に現れるのです」(エリセ)
  誰もが通過儀礼として体験する「不安な道」を、エリセは、ロング・ショットを多用した静かな詩的映像美をもってして繊細に描き切る。スペイン内戦(1936年7月〜1939年4月)で疲弊した寒村の一挿話が、魅力溢れる子役、アナ・トレントの演技によって、時空を越えた普遍性を獲得するのだ。本作には、『ブリキの太鼓』や『パパは出張中』などと同様に、いまだ精霊世界との交感が可能な幼い者の、大人社会の愚かさを射抜く澄んだ眼差しがある。
  物語を潤す、静謐な日常を包み込むスペイン中部カスティーリャ高原の圧倒的な景色も忘れられない。
  「オユエロス村への旅は、何かを見つける旅、ドン・キホーテの旅だ」(エリセ)

  舞台は1940年、カスティーリャ地方のオユエロス村。同胞が殺戮し合う凄惨なスペイン内戦の、傷跡生々しい寒村の物語だ。フランコ軍によって人民戦線内閣が崩壊(マドリッド陥落)した翌年であり、人々の諦観漂う疲弊した表情が時代を映し出してもいる。
  ある日、移動巡回映写のトラックが一本の映画を村に持ち込んだ。怪奇映画の古典、アメリカ映画『フランケンシュタイン』(1931年)である。唯一の娯楽である映画に喜ぶ村人、子供達。その中には六歳のアナと九歳になる姉のイサベルもいる。
  その頃、父フェルナンドは養蜂場で作業を、母テレサは部屋で手紙をしたためている。テレサは、誰にあてた手紙なのか、沈痛な面持ちで駅へと向かい、汽車のポストに手紙を投函するのであった。
  アナは、フランケンシュタインが水辺で出会った少女メアリーを何故殺したのか、気になってしょうがない。そのシーンに魅入られたアナは、ベッドの中でイサベルから、フランケンシュタインは怪物でなく精霊で、村はずれの一軒家に身を隠していると教えられるのであった(ベッドの中で囁く二人の美しいシークエンス。邦題はここからくる。原題は『ミツバチの精霊の巣箱』)。「会いたい時には目をつぶって“私はアナよ”とおまじないを唱えればいつでも会えるのよ」
  下校。アナとイサベルは、村はずれの、広大な野原にポツンと建つ廃屋へと向かう。小さくなってゆく二人の美しいロング・ショット。大きな井戸。地平線。
  ある日、一人のアナが例の廃屋へゆくと、当局から追われている人民戦線側の負傷兵が潜んでいた。大きなリンゴを差し出すアナ(彼はアナにとっての初めての「他者」だ)。そして次の日、アナはこっそりと家から引っ張りだしてきた父の外套を兵士に与えてやるのであった。ポケットには父のオルゴール時計が……。
  その夜、廃屋に数発の銃声が響く。
  翌朝、警察に呼び出された父フェルナンドは横たえられた兵士の亡骸と対面する。食事の席でアナを見つめながらオルゴール時計を鳴らすフェルナンドに、すべての事情を理解するアナであった。
  例の廃屋で血痕を見つけるアナ。夜になってもアナは家へ帰らない。心配する家族。その頃、森の水辺に座り込むアナの前に、映画で見た精霊(フランケンシュタイン)が姿を現すのであった……。
  朝。廃墟で倒れているアナは発見されるが、衰弱が激しく、イサベルが声を掛けても応えない。夜になりようやく目覚めたアナは、月明かりの窓でつぶやくのだ。「私はアナよ」

  アナに取り憑いた不安は、怪物に子供を殺させるような不条理、すなわち人生や社会への不安でもあった。社会から拒絶された怪物。追われる敗走兵。アナは、人生の形成プロセス、通過儀礼の途中で、社会的「痛み」を知ることによって自意識を獲得するのであった。人生に輪郭を認める瞬間である。「私はアナよ」
  「あらゆる神秘的体験のうちで重要なのは、幻影の姿が露わになる瞬間、通過儀礼の瞬間なのであり、僕はそれに身を任せることにした訳です」(エリセ)
  人間嫌いの元インテリ、父フェルナンド。ひたすら「過去」へと手紙を書く毋テレサ。フランコ独裁体制の重圧は、心情的に人民戦線側に立っていた多くの市井の大人達から、生の躍動をことごとく奪い取っていた。人々は心を塞ぎ、自己の中へと亡命していたのだ。
  アナが見つからない夜、手紙(宛先はフランスだ)を燃やすテレサのシークエンスは、未来へと重たい腰を上げる一人の女の出発を暗示している(映画冒頭の手紙にテレサは「人生を本当に感じ取れる力も消えてしまったようです」と書いている。手紙の相手はフランスへ亡命した昔の恋人か)。そう、アナの通過儀礼にとどまらず、トラウマを抱えた戦後スペインの通過儀礼をも本作は謳っているのである。
  真っ直ぐに延びる単線の線路に耳を当てるアナとイサベル。まだ見ぬ遥かな世界への好奇心が人生に「旅立ち」の機会を与えるのだ。

  「『ミツバチのささやき』は、スペイン内戦を生き延びた世代のことを語っています。そして内戦は、共同体にとって最も辛い体験です。兄弟が互いに対立することになるのですから。内戦では誰もが敗北します。真の勝者はいないのです。私の子供時代の記憶の中にいるこうした人々は、一般に寡黙で内省的な人達でした。何か非常に恐ろしいものをくぐり抜けてきたので、彼らは話したがらなかったのです。我々子供達はこれをある種の“不在”として体験しました。深い所では、彼らはずっと遠くにいるのだと感じていたのです。そして多分その為にコミュニケーションの欠落があったのでしょう」「内戦の直後に生まれた人間は、様々な重要な面で、あの空虚感、真空状態を遺産として受け継いでいる訳で、それを子供の頃から経験しつくしてくると、大人というのはしばしばそういう空虚・穴ぼこ・不在であってしまう訳ですね。大人達はそこにいた(生き残ってきた人達は)訳ですが、でも、どうもいないみたいなものなのです。どうしていないのかというと、それは、死んでしまったか、あるいは国を去っていってしまったか、そうでなければ、自分の一番本質的な表現方法を根本的に奪われて自分の中に閉じこもってしまっていたからです。もちろん今言っているのは負けた人間のことです。けれども、単に公式的な意味で負けた人間だけではなく、あらゆる種類の敗者がそうなのです。(中略)彼らにとって悪夢だったものが終わると、多くは家に戻って子供を育てました。けれども、彼らの中には永久に失われてしまった部分があった訳で、それが彼らの“不在”の意味するところなのでしょう」(エリセ)

  なお、エリセが最初に感銘を受けた映画はトリュフォーの『大人は判ってくれない』。そして『ミツバチのささやき』制作時、松尾芭蕉の『奥の細道』を愛読していたらしい。なーるほど。