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鬼が来た!
  (2000年 中国)
  監督: チアン・ウェン(姜文)
  原題: 鬼子來了(DEVILS ON THE DOORSTEP)
  主要舞台: 中国
    DVD発売中:¥4,935(税込)
発売元:ジェネオン エンタテインメント

  「戦争によって命を失った人々のことを本当に大事にするのであれば、日本が行った植民地支配、侵略、占領植民地下の虐殺の事実を認め、反省し、補償を行い、その中でアジアの諸民族との平和共存を望むという、未来に向けた平和への強い意志を遺族の方々に理解してもらうと同時に、そのことを国際的に説明し、理解してもらうべきです。(中略)私達は、小泉首相による靖国神社公式参拝に断固反対し、日本軍国主義が行った植民地支配と侵略行為を反省するとともに、補償を行い、その中でアジア諸国との平和共存の為に不断の努力を続けていくことを強く求めます」(武者小路公秀)
  「小泉首相その他日本の首脳が、靖国神社参拝の何が中国や韓国などアジア諸国の怒りを買っているのかを理解するまで、日本が経済力に見合った外交上の影響力を行使するチャンスは殆どない」(英フィナンシャル・タイムズ紙社説 )

  まったくその通りだろう。到底奴らにそんな「理解」力があるとは思えないが、日本の右派政治家やニセ右翼の、玄界灘を越えることすら出来ない貧弱な世界観・歴史観は、恥の上塗りでこそあれ、国際的に活躍する日本人にとっての足枷にしかならない。世界中どこへ行っても、政治に無頓着な若者ですら、日本の右派の幼稚な歴史観は呆れられているのである。まさに「亡国的」。市民にとって、まったくもって迷惑千万な話だ(ブッシュのペット、小泉純一郎は靖国神社参拝をめぐる提訴について「世の中おかしい人達がいるもんだ」と一言で片付けた)。
  大体これは、中国やアジア諸国に抗議されるから「靖国参拝」をやめる(する)とかいうような次元の問題なのか。靖国神社は、戊辰戦争の明治政府軍の戦死者を祭る為、1869年、東京招魂社として明治政府によって創立されたものに過ぎないのだ。いわば新興宗教である。「靖国参拝」であれ「伊勢神宮参拝」であれ、憲法の定める政教分離原則を無視した法律違反であることに変わりはない。
  そんなに戦犯も含む戦争犠牲者の霊魂の祭祀をやりたいのであれば、明治維新以来のすべての朝敵も、日本軍によって殺されたすべてのアジア中の戦死者も、天皇との関係如何を問わず、あまねく祭った戦没者慰霊施設を作ればいい。結局、先の大戦を肯定したいニセ民族主義者の願望が「靖国参拝」に象徴されているに過ぎないのである。出征兵士の壮行、武運長久の祈願、日本軍の祝勝行事、戦死者の慰霊などなど、戦争動員に不可欠な施設としての靖国神社が果たした重大な戦争責任は、外国から言われるまでもなく日本人が自らおとしまえをつける問題なのだ。本当の民族主義者なら(もしいるのなら、だが)分かるはずの話である。
  近年来、ますます中国での反日感情が高まりをみせているのも、日本の右派政治家の言動と無関係ではない。南京大虐殺や三光作戦に代表されるような日本軍の悪逆非道を展示した施設などが中国各地に作られるようになったのも、1980年代の「教科書問題」以降のことなのだ。中国の教条的反日プロパガンダを育てているのは、天安門事件以降の江沢民による国内戦略(愛国主義)もあるが、実は日本の右派政治家でもあるのだ。

  中国国内ではいまだ上映が許されていない本作『鬼が来た!』(カンヌ国際映画祭グランプリ)は、教条的反日プロパガンダに陥らない、勧善懲悪を越えた圧倒的な戦争人間ドラマだ。中国当局にとって(また日本の右派にとって)都合の良いヒロイックな中国人(や日本人)は、ここにはいない。日本兵の残虐性も当然描かれてはいるが、中国共産党からすれば「生温い」ということになるだろう。とにもかくにも、軍事を信仰する者達の間抜けさ、市井に生きる庶民の滑稽な逞しさが、普遍的な眼差しをもってして、戦争と人間をあぶり出すのである。『アンダーグラウンド』(1995)や『ノー・マンズ・ランド』(2001)のような、ペーソスを漂わせるスラップスティック的ブラックユーモアが、躍動感溢れる生の充溢、悲愴で滑稽な人間模様、絶望的なまでの人間の残酷性を、一気に立ち上らせるのだ。
  「この映画はすごい。力の上に力を加えて中華鍋で炒め、餅とかガンガンぶち込んで最後に泥の胡椒をかけた熱々のやつを最新鋭のミサイル砲の筒に突っ込んで地球の裏側に向けてぶっ放した感じがする」(香川照之)。まさに。
  本作の監督・脚本・主演は、『芙蓉鎮』(1986)、『紅いコーリャン』(1987)で名演を見せた俳優、チアン・ウェン。監督としては『太陽の少年』(1994)に続く入魂の第二作目である。演出家としても俳優としても、圧倒的なパワーで観る者の心を揺さぶるのだ。
  「太平洋戦争は確かに六十年近く前に終わった戦争ですが、中国人の意識にいまだ現存する戦いなのです。戦時下の状況を再現したいという思いは確かにありましたが、それ以上に私が考察したかったのは、死や危険が迫った時、人間はどのように反応し行動するかということでした。社会状況が異なっても、人間のそうした行動は現代人にも相通じるのではないでしょうか。確かに戦争は、私の興味を最も明確に具現化してくれます。しかし私が描く人間の行動は、今日の社会にも常に見受けられるものなのです。これほど重く意味深い歴史に対し、西洋ではありとあらゆる理論・考察が掲げられますが、中国では政権が代わるごとに論説も変わるのです。例えば80年代、南京大虐殺は誰も口にしない、口にすることを禁じられた話題でした。私は文化大革命の間に生まれましたが、全ての政治的言説に疑問を投げかけることを学びました。正しいと語られることを、同世代の誰もが懐疑的な態度で聞いていました」(チアン・ウェン)

  日本の対中侵略戦争もジリ貧状態の1945年旧正月直前。日本軍占領下の中国華北、万里の長城近くの寒村、掛甲台(コアチアタイ)村が本作の舞台である。軍艦マーチを演奏する日本海軍の軍楽隊に村人が媚びへつらうシーンから始まる。
  ある丑三つ時、「私」と名乗る男が村の青年マー・ターサン(チアン・ウェン)の家へ押し掛け、拳銃を突きつけながら大きな麻袋を二つマーに押しつける。二つの麻袋にはそれぞれ日本兵花屋小三郎(香川照之)と中国人通訳トン・ハンチェン(ユエン・ティン)が入れられており、「私」は、それをみそかまで預かるよう脅し、供述書も取れと命じて去ってゆくのであった。
  日本海軍の砲塔がそばに建つような村で日本兵捕虜を家に置くなど、村人にとって危険極まりない行為である。村人は寄り集まり、殺すか、日本軍に引き渡すか、喧々轟々大騒ぎになる。五日間という「私」とマーの約束期日も過ぎ、こうして、怯える村人と囚われた二人の半年間にも及ぶ、恐ろしくも滑稽な毎日が始まる。
  日本兵の花屋は捕虜となったことを恥じ、「早く殺せ!」とわめき散らすが、命が惜しい通訳のトンは即座に機転を利かせ、中国人を侮辱する花屋の言葉を勝手に友好的な言葉に翻訳して村人に伝えるのだ。これがかなり笑える。
  「お兄さん、お姉さん、新年おめでとう!」「あなたはおじいさん!  私はあなたの息子です!」「小麦粉!」
  絶叫する花屋。微笑む村人。死にたがる自暴自棄な花屋に、優しいマーや村人は何とか飯を食わそうとするのだ。村の長老ウー(ツォン・チーチュン)の尋問も、通訳トンが花屋の答えと正反対の言葉に訳す為、和やかな空気が流れる始末。「国家」から離れると、所詮人間ボチボチなのである。
  次第に、元々窮乏生活にあった村の食糧も底をつき始め、日本軍がマーの家へ近付く度に花屋が叫ぶような状況が続くことから、村人は、やはりこの二人に殺す決断を下す。しかし、雇った剣の達人はあっけなく失敗し、心優しいマーも二人を殺すことなど出来ない。
  時は流れ、もはや二人を預かって半年。村には日本陸軍も進駐することになり、いよいよ村人全員に危機感が襲う。今や村人の世話に感謝し生きる意欲を取り戻していた花屋は、「私を助けて世話してくれたお礼に、穀物二台分を進呈するよう日本軍に掛け合う」と村人に提案するのであった。
  花屋と通訳トン、そしてマー達村人は日本陸軍の兵営にゆく。酒塚隊長(澤田謙也)は、「生きて虜囚の辱めを受け」た花屋を激しく叱責し殴打するが、花屋と村人の約束を知り、「我々日本兵は信用を重んじる」と、穀物六台分を村へ贈ることに決めるのだ。そしてその夜、村人全員と、陸海軍の日本兵が集まり宴会が開かれるのであった。
  軍楽隊。唄。笑い。酒宴。しかし眼光鋭い酒塚はニコリともしない。そしてやはり悲劇は起こる。いきなり酒塚は「腐敗分子」花屋の殺害を村人に命じるのだ。「さあ誰か、この男を撃ち殺して下さい」。勿論名乗りを上げる者はいない。酒塚は、空に向かって銃を一発放ち、村人に詰問する。「お前達は武器を隠し持っているに違いない!  花屋をお前らに渡したのは誰だ?  マーはどこへ行った?  花屋を預けた男を呼びに行ったのだろう?  武器を携えて戻って来るのだろう?」。そして、酔った一人の村人が酒塚にヘラヘラと笑いながら気安い口調で言う。「そんなに怖がらなくてもいい」。その姿に激怒した花屋は衝動的にその村人を殺害し、それを合図とするかのように、宴会は修羅場と化すのであった。切って落とされる大惨劇の幕。銃殺の嵐。焼き尽くされる村。夜空を焦がす炎。狂気の日本兵。村人を殺さなければ自分達が殺されるという疑心暗鬼。そう、酒塚だけが知っていた。戦争は既に終わっていたのだ!
  そして村人全滅の中、生き残ったマー……。
  中国解放。囚われる日本兵。花屋や酒塚らもいる、民衆の面前、アメリカ進駐軍をバックに中国国民党軍の裁判が始まる。復讐心から日本兵を殺害したマーが裁かれる衝撃のラストシーンだ……。

  日本人なら後半30分の、日本軍の突発的な蛮行、狂気のみが視覚に強く焼き付けられるだろうが、中国映画としての本作の稀有なポイントは、「解放」後の場面に人民解放軍が描かれていないことにこそある。日本の侵略、中国の戦後に対して、もっと複雑にあった筈である中国民衆の葛藤する心理を、本作は、史実をもってして絶妙にすくい上げているのだ。人間が内抱する闇への接近。決して映画は言わないが、麻袋を運び込んだ「私」とは、他ならない、人民解放軍(八路軍)の兵士なのである。
  日本軍も国民党軍も八路軍も突き抜けて、民衆の魂に寄り添おうとするチアン・ウェン監督の意志。冷徹に暴力を描くことによって、決然と暴力を否定してみせる深遠な作劇術。日中政府の政治的意図に絡め取られることのない、人間の側に立った画期的な作品の登場なのである。
  またチアン・ウェンの日本軍人像の描写も的確だ。来日時にアメ横で日本の軍服を買い、日本軍の写真集を求め、日本刀を研究し、旧日本兵の話を聞き、日本軍に徴兵された中国人にも会い、多くの日本戦争映画を見て、挙げ句、撮影前には厳しい軍事訓練まで俳優に課し、徹底的にリアリズムを追求している。中国映画によくある、流暢な中国語を喋る変な日本人描写は、ここでは皆無である。
  斬首された百姓マー・ターサンの見開いた目が睨む先にあるものは、現在の我々が作り出しているこの世界、そして未来だ。ならば、「お兄さん、お姉さん、新年おめでとう!」という(これまた実は百姓の)花屋の絶叫は、世界平和宣言である。人類社会の答えは「風に吹かれて」いるのではない。底辺の悲喜劇の中にこそあるのだ。
  ちなみに、当初予定されていたエンディングでは、五十年後、老いた花屋が訪中してマーの息子に罪を詫びるというシーン(カラー)も撮影されたそうだ。是非、その完全版も観てみたいものだ。

  「私は、中国の映画人の輪から距離を保とうと努めており、映画を撮る時には映画界の常套手段でやるのではなく、生活そのものに着想を得てやりたいと思っています。日常生活に於いては喜劇と悲劇は表裏一体であり、両者を別々にしては映画を撮れないと考えています。こんな話があります。酸素マスクの管を鼻に差した病床の老人が、看護婦に向かって彼女が理解出来ない国の言葉で何かを言いました。翌朝この老人が亡くなり、病院に駆けつけた息子に前日世話をした看護婦が、老人の言っていた外国語の文句をそのまま伝えました。息子はその言葉を看護婦に通訳しました。“私の酸素マスクの管を踏んでいます”。悲劇か喜劇かなんて決められないでしょう」(チアン・ウェン)
  「『紅いコーリャン』よりもこういう映画の方が居心地が悪い。日本人が悪魔のように冷酷・残忍で、非人間的に描かれている方が、これはデフォルメされた姿だと思えるので、対象に対して距離を置くことが出来るが、『鬼が来た!』はそうではない。日本兵は侵略者であり、中国人に対する態度は横暴で尊大だが、同時に人間的な存在として描かれている。差別意識を剥き出しにして威張り散らし、ニワトリを略奪したりするが、好んで住民の虐殺を行うようには見えない。クライマックスの虐殺も偶発的で、日本兵が意図して行ったようには見えないのだ。こういう話は怖い。彼らは何処にでもいる普通の人間なのだ。たまたま、中国に侵略し、中国人を蔑視する立場にいるからそうしているのだが、そういう状況でなければ、今の日本人とたいして変わらないだろう。いや、日本人だけでなく、どんな国の人間もこうなる可能性があるのかも知れない。彼らは悪魔ではない。なのに、虐殺が起こる。虐殺は悪魔が起こすのではなく、人間が起こす。それをこういう風に、あまりにも自然に、あまりにも人間的に見せられてしまうと、過去のこととして距離を置くことが出来なくなる」(映画評論家/新藤純子)
  「その大胆さに於いては傑出している。すべてのシークエンスは驚きの連続であり、クラシック音楽のように繊細な編集と対比を際立たせていく演出は芸術の域に達し、高潔な舞台効果に満ちている」(フランス・ソワール紙/ジャン・フィリップ・ゲラン)