オンライン魂花時報WELCOME TO NAKAGAWA TAKASHI'S WORLD中川敬のシネマは自由をめざす!リスト > オール・アバウト・マイ・マザー
NAKAGAWA TAKASHI'S ALL CINEMAS GO FORWARD TO FREEDOM !
オール・アバウト・マイ・マザー
  (1999年 スペイン)
  監督: ペドロ・アルモドバル
  原題: TODO SOBRE MI MADRE
(ALL ABOUT MY MOTHER)
  主要舞台: スペイン
   

  松葉杖の男がいた。全身黒ずくめのなりをした、笑顔のいい男だった。幼少期の事故で片足を失った、映画評論もする高校教師だ。七、八年前に対談をし、その後数回、我々ソウル・フラワー・モノノケ・サミットの被災地(神戸)出前ライヴの客席に彼の顔を見つけることが出来たものだった。そのまま数年間、再会することもなく、彼の存在自体を忘れていた今年(2004年)の初頭、彼の書く人間味溢れる映画評論を再読する機会があり、彼の名をネットで検索してみたのであった。そういや浅田(修一)さん、最近どないしてんねんやろ?
  しかし、何とそこにあったのは、彼の死を伝える数々の文言。四年前の2001年初頭に、浅田さんは亡くなっていたのであった。齢六十二。
  『教師が街に出てゆく時』『神戸・わたしの映画館』『映画のあとで』。人生の泣き笑いが行間に散り乱れるようなその著書の数々は、映画評論というよりも(彼自身は「映画見物記」と言う)、浅田修一を主役に据えた、まさに「映画そのもの」であった。身体中を巣食う痛みや吐気を伴う頭痛と闘いながら、一人で、或は女友達と映画館へ足しげく通い、人生と映写幕と鑑賞行為の渾然一体をその書に活写した。映画評論家の卓見よりも、俺は鼻唄のような彼の文章が大好きだった。それは、自由をめざす詩(うた)でもあった。
  その浅田さんの、期せずして遺作となった『神戸・最後の名画館』(幻堂出版)にある絶筆が、ペドロ・アルモドバル(『トーク・トゥ・ハー』の項参照)の『オール・アバウト・マイ・マザー』評であった。俺にとっても重要なベスト・シネマであるこのアルモドバルの一大傑作を、浅田さんが死の間際に観て、なおかつそこで、続きゆく人生と再生を綴っていることに、何か嬉しくなってしまったのであった。
  以下に彼のその「絶筆」を転載し、「手抜き」をさせてもらうことにしよう。

  私もまた遥かな昔、多くの映画をこういう場所で見てきたなあと思う。小屋の座席の缶入れの穴ひとつが紡ぎ出すものは、いっぱいある。
  さて、『オール・アバウト・マイ・マザー』。いきなり点滴の袋のアップが出てきたので、ちょっとびっくりしたけれど、うまいもんをいっぱい喰わせてもらって、ヨーシ、ヤルカという気持ちにされる映画である。映画の快楽が、即解放感に繋がっている。映画というものはやはりこうでなくてはいかん……。
  (中略)せっかく見たアルモドバルを、「うまいもんをいっぱい喰わせてもらって、ヨーシ、ヤルカという気持ちにされる映画」と言うだけでは不親切かもしれない……。
  映画を見ている時は、大変よくわかったのである。しかし、この人の作品は、見終わって、さて人に伝える際がむずかしい。
  やってみるか。……主人公はマヌエラという三十八歳の女性。臓器移植コーディネーターという仕事をしている。彼女は、女手ひとつで育ててきたひとり息子エステバンを、彼の十七歳の誕生日に『欲望という名の電車』(舞台)を見に行った帰り、自動車事故で失う。
  エステバンは作家になりたくて、日頃からノートにこまごまとしたことを書いていたが、彼女は父親のことには一切触れなかった。息子の最期の言葉……僕の人生が半分失われている気がする……を読んで、マヌエラはマドリッドからバルセロナへ、十七年前に別れて行方のわからなくなった夫を探す旅に出る。
  実はこの映画のおもしろさは、マヌエラの旅の道中で登場する人物(ほとんどが女性)にある。『欲望という名の電車』のブランチ・デュボアを演じる大女優ウマ・ロッホは、ベティ・デイヴィスに心酔していて、女しか愛せない。愛している新進女優ニナ・クルスは麻薬中毒である。修道女シスター・ロサは、マヌエラが探している夫の子どもを生み、子どもはエイズに罹っている。彼女の父はアルツハイマー症。毋は贋作専門の画家である。マヌエラの親友アグラードは女装の娼婦だ。
  登場する人物の性格が、少々特異に設定してあるからおもしろいのではない。そういう人物が今生きていることは、自明のことであるという、大きくて豊かな包み込み方をした上で、その一つひとつの個性が、溌剌と人を愛し、エロ話をし、ウソをつき、大笑いをし、連帯する。
  私は実は、最近の「女性讃歌」の作品は好きではない。しかし、アルモドバルのこの作品の「女性讃歌」の根太さには、力を貰った。あの何とも魅力的なアグラードになれるものなら、性転換もしたいぐらいである。
  エイズの子どもは、出産の時にシスター・ロサが死ぬので、マヌエラが育てていく。エステバンの父親を一世とすれば、この子どもはエステバン三世というわけだ。
  ……「新劇会館」は連日オールナイト興行をする。それはもう付き合えないが、黒ずくめのなりをして、またあの座席に腰を下ろすだろうと思った。

  毋親であるすべての人、女であるすべての人に捧げられたこの人生讃歌は、また、「女優を演じた女優」にも捧げられている(エンド・クレジット)。ジーナ・ローランズ(『オープニング・ナイト』の項参照)、ベティ・デイヴィス、ロミー・シュナイダーetc……。特に、雨中、エステバンが女優にサインを貰い車に跳ねられるシーンは、そのまんま『オープニング・ナイト』の引用である。また、タイトルはベティ・デイヴィス主演『イヴの総て(ALL ABOUT EVE)』(1950年)へのオマージュだ(よって邦題は『毋の総て』でなければならない)。
  「『オール・アバウト・マイ・マザー』を観た者は、それが荒唐無稽な虚構であることを意識しながら、それでも、切なさとないまぜになった幸福感に満たされ、“人生というのはいいものだな”という、凡庸な、しかし否定しがたい感覚がこみ上げてくるのを抑えられないだろう」(浅田彰)

  「痛み」は依然として元気だが、しかしそれでも人生は続きゆく。そんなことをツラツラと想い巡りながら、2004年2月、徹夜明けで一気に書き上げた曲が<松葉杖の男>だ。浅田さんへの想いをその詩に書き綴ったつもりなのに、ライヴでこの唄を歌うたびに立ち現れる風景には、アルモドバル映画に出てくるようなゴキゲンな「変人」達や「オンボロ」達がいたりする。
  浅田さんのせいで、俺にとっての『オール・アバウト・マイ・マザー』はそんな映画になったし、アルモドバルのせいで<松葉杖の男>はそんな曲になったのである。
  人生に乾杯!

  奴は突然現れる  全身黒に身を包み
  松葉杖は軽やかに  いつも  ゆく道を踊る

  奴は映画館へ通う  やるせなさを身にまとい
  闇に包まれ  座席に  深く  その身を沈める

  奴の振仰ぐ夜空  漏れる溜息のゆくえ
  そこは新開地の路地  やけくそをくるんだ街

    車窓を飛び去る景色  重ねる  散らばった記憶
    銀幕と希望が好きで  笑い顔がいい男

  奴は突然現れる  全身黒に身を包み
  松葉杖は軽やかに  宿す痛みを隠して

  六十年弱の月日  片足にかけた重み
  それは  そのまま  喜び  怒り  哀しんだ轍

    車窓を飛び去る景色  重ねる  散らばった記憶
    銀幕と希望が好きで  笑い顔がいい男

    風の便りだけど  奴は死んだという
    風まかせの唄  松葉杖の男

  (中川敬作詞作曲<松葉杖の男>)