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パパは、出張中!
  (1985年 ユーゴスラビア)
  監督: エミール・クストリッツァ
  原題: OTAC N'A SLUZBENOM PUTU
(WHEN FATHER WAS AWAY ON BUSINESS)
  主要舞台: 旧ユーゴ連邦圏
    『パパは、出張中!』
定価(税込) 3,990円
商品番号 TCD1018
発売元 東北新社
販売元 東北新社

  欧州の火薬庫と揶揄されるバルカン半島の旧モザイク国家、ユーゴスラヴィア社会主義連邦人民共和国(旧ユーゴ)。1990年代、ユーゴ連邦解体後の、血で血を洗う内戦の悲劇は、「9・11」以降の混迷する世界情勢によって、もはや忘れ去られようとしているかのようだ(『パーフェクト・サークル』の項参照)。
  旧ユーゴにはこんな数え唄がある。「七つの国境、六つの共和国(セルビア、モンテネグロ、スロベニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチア、マケドニア)、五つの民族、四つの言葉、三つの宗教(カトリック、プロテスタント、イスラム)、二つの文字を持つ、一つの国」
  旧来、様々な民族が近隣の大国に翻弄されながらも、何とか一つの連邦国家として持ちこたえていたのは、ドイツ、イタリアなどに分領されていた第二次大戦の後(ソ連の力を借りず、チトーを中心としたパルチザンがナチスを退けて独立)、 チトー大統領率いるユーゴ共産党が「諸民族の友愛と団結」を呼びかけ、人心を捉えていたことにもよる。旧ユーゴは東欧の中で、唯一ソ連の干渉に抵抗し、独自の社会主義路線(コミンフォルム除名、労働者自主管理、直接民主制)を歩んでいたのである。
  本作は、50年代初頭のチトー政権下に、激動するある一家の人間模様を六歳の少年の視点で描いた、乾いたユーモアとペーソスに満ち溢れた秀作で、『ジプシーのとき』『アンダーグラウンド』『黒猫白猫』のクストリッツァにとっては、若干三十歳の記念碑的出世作でもある(1985年カンヌ国際映画祭グランプリ受賞)。

  舞台は1950年6月、チトーの五ヵ年計画に向けて邁進するユーゴのサラエボ。六歳のサッカー少年マリクは両親、兄、祖父と一緒に暮らしている。
  ある日、マリクの父メーシャは、愛人の体操教師アンキッツァにふと漏らした発言のせいで、反スターリン路線のチトー政権に「親スターリン」「ソ連寄り」のレッテルを貼られ、強制奉仕労働送りになってしまう。メーシャは新聞の風刺漫画(スターリンの肖像画を掛けた部屋でマルクスが執筆活動する図)に「やり過ぎだな」と呟いただけである。物語は、密告の横行する監視社会の人間模様を描いてゆく。
  父親不在の家庭を守らなくてはならない母セーナは、「パパは出張中」だと子供達に言い聞かせ、メーシャの不在を誤摩化すのであった。
  女好きで俗物の楽天家メーシャ。ほのぼのとした空気を醸す夢遊病者マリク。とぼけた父子コンビの存在が、暗くなるはずの状況を喜劇に変える。特に、久々に再会した夫婦がベッドでマリクの邪魔に遭うシークェンスは爆笑ものだ。
  家族ともどもズボルニクへの「島流し」。マリクの割礼、難病のマーシャとの初恋、頻発する夢遊病。一方、懲りずに浮気を続けるだらしない父メーシャ。
  一家はサラエボへ帰還し、場面は1952年7月、親戚や友人が久々に一堂に会す、マリクの叔父の結婚式だ。メーシャは、アンキッツァを納屋に連れ込み、「密告」を咎め、姦通する。外では、ユーゴ対ソ連のサッカー試合の実況中継を聞く一同。「政治なんてクソくらえだ!」という言葉を残し、マリクの祖父は養老院へと一人発つのであった。
  ラストシーン。見透かされた情けない大人社会を暗示する、夢遊病のマリクの無邪気な微笑みがある。

  陰惨な政情や家族の絆よりも、まずは人間の欲望を露骨に捉えて闇をユーモアで包むあたりに、クストリッツァの真骨頂をみる。この人間讃歌ともいえる本作で、クストリッツァが衝いてみせたのは、「世間」というヤツの核心にほかならない。本作を、強権的な体制に対する「異議申し立て」と位置づけることも可能だが、反体制的ヒロイズムには程遠い主人公達の有り様が、人間味に溢れていて実に爽快。人間に対する、並々ならぬ好奇心がここにはあるのだ。
  クストリッツァはフェイバリットにジャン・ルノワールとフェリーニを挙げ、映画監督として吟遊詩人、魔術師、語り部であることを信条にしている。作劇の寓話性とリアリズムの同居する文法。クストリッツァは観る者を物語の中に温かくいざない、観劇後、一気に現実へと突き放すのだ。そこには底抜けに快活な積極的思考が息づいているのである。
  体制の強権に対抗する弱者の楽天性。悲惨の中のユーモア。絶唱は時に鼻唄の集積として響くのである。