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if もしも…
  (1968年 イギリス)
  監督: リンゼイ・アンダーソン
  原題: IF
  主要舞台: イングランド

  1950年代後半から1960年代へかけて、フランス・ヌーヴェルヴァーグやアメリカン・ニュー・シネマ、ポーランド派のような、既成概念や権威主義を拒否する新しい映画が世界規模で続々と登場し、世代交代の波、映画の革新運動は、もはや止めようのない世界的潮流であった。例えばイギリスでは、フリー・シネマと呼ばれるドキュメンタリー運動があり、『長距離ランナーの孤独』(1962年)のトニー・リチャードソンや『土曜の夜と日曜の朝』(1960年)のカレル・ライス、そして本作『 if もしも…』のリンゼイ・アンダーソンらが、当時の「怒れる若物達」世代の代表的監督として広く知られている。
  映画批評家でもあるリンゼイ・アンダーソンの、『孤独の報酬』(1963年。元炭坑夫、ラグビー花形選手の、未亡人への純愛物語)に続く長篇第二作目がこの『 if もしも…』。1960年代後半といえば、アメリカのベトナム侵略戦争を巡り、全世界的に学生運動や文化革命の気運が高まった時代である。本作は、当時のスチューデント・パワーの席巻を現実と幻想を織りまぜて描いたアナーキーな学園ドラマの怪作で、そのラジカルで異様な演出世界は、結果、カンヌ映画祭グランプリ受賞をも呼び込むことになるのであった。

  舞台は、五百年の伝統を誇る、とあるイギリスの名門私立中・高等学校(パブリック・スクール)。上流家庭の男子の為の、進学教育やエリート養成を目的とする、いわば支配階級の養成所である。
  冒頭は、全寮制の当校に生徒達が戻って来る新学期。厳格な規律、重んじられる伝統と忠節の中、まるで軍隊かのように教師が生徒をいたぶる姿が描かれる。しかし、教師の前では借りてきた猫のように大人しい生徒達も、いざ鬼の目から逃れると、トイレなどの空間で弱い者イジメに邁進するのである。生徒の卑屈な有り様までもが軍隊のようなのだ。
  そして最もたちの悪い存在が、生徒の中から教師によって選ばれる「監督生」だ。彼ら監督生は、生徒達に対する寮での日常生活の監視や指導の他に、罰を下す権限まで与えられており、いわば教師の傀儡的存在、下士官なのである。その監督生は、下級生の中から自分専属の「世話係」を一人選ぶことが出来、自分の髭剃りや更衣、はたまた同性愛の愛玩物にまでしてしまうこともあるのだ。
  そんな寮生活の中、マルコム・マクドウェル(『時計じかけのオレンジ』のアレックス)演じるミック・トラヴィスや、その仲間ジョニー、ウォーレスら不良グループは、秘かに酒や煙草を持ち込み、部屋の壁にはゲバラや毛沢東、ヌード写真などのピンナップを貼り、沸々と不満を燻らせている。長髪を咎められ、監督生から「冷水シャワーの罰」を受けるトラヴィスだ。
  ある日、街へと繰り出したトラヴィスとジョニーは、展示用バイクを乗り逃げし、郊外のカフェへ。カフェの少女とトラヴィスのセックス・シーンが幻想的に描かれる。
  常日頃から教師や監督生に忌み嫌われていた「反逆分子」のトラヴィスら三人は、学校の風紀を乱したという理由により、鞭打ちの罰を受けることに。そして遂に、我慢の限界を超えたトラヴィスらのレジスタンスが始まるのであった。「圧制者に死を!」「世界を守るのは武力のみ!」
  ある日、学校主催の野外戦闘訓練が行なわれ、そのさなか、どさくさに紛れてトラヴィスら三人は銃剣により教師殺害未遂事件を起こす。そして、罰による倉庫の掃除中、彼らは大量の武器が眠っているのを発見するのであった。
  創立五百年記念式典の日。著名な来賓や父兄が大勢集まり、将軍が祝辞を述べるそのさなか、突然式場に煙が上がる。凄まじい銃声。炸裂する砲弾。トラヴィスら三人に加えて、カフェの少女や「世話係」の生徒が遂に狼煙を上げたのだ。トラヴィスらによる屋上からの機関銃乱射。手榴弾投下。「私は理解者だ」と呼びかけた校長を、カフェの少女は顔色も変えずに射殺するのであった。阿鼻叫喚の地獄図である。そして映写幕には浮かび上がる「 IF」の文字がある……。

  「もしも…」という仮定で描かれた生徒達の武装決起ではあるが、時は1968年である。公開当初、世界中の行動する学生達が、本作を大歓迎をもってして迎えたのも当然なことだろう(当時ここ日本でも、全国百十五の大学や高校で大規模な学園紛争が起こっている)。現実と幻想の垣根は実に低かったのだ。
  本作を暴力肯定映画とみる視点は、申し訳ないが、教師側に立つ啓蒙主義的視点であると言わざるをえない。弾圧される側、抑圧される側、イジメられる側の脳裏には、常に「もしも…」という仮定、希望が浮かんでは消えてゆく訳であって、せめて映画や音楽ぐらいはそうした階級の幻想に呼応する装置であるべきなのだ。
  「彼(リンゼイ・アンダーソン)が書くものの中に、僕がしようとしたことを見つけたのだ。それは、あの時代の空気、シニシズムや絶望や幻滅に真っ向から対立する何かを、きっぱりと言い切ることだった」(劇作家アーノルド・ウェスカー)
  アンダーソンの長篇処女作である前作『孤独の報酬』と本作との間にある作風の激変に、60年代という時代の慌ただしさをみるようだ。時代はビートルズ旋風の真っ只中でもあった。
  ちなみに、素行不良生徒のレジスタンスを描いた古典、ジャン・ヴィゴ監督『新学期・操行ゼロ』(1931年)の本作への影響を、アンダーソン自身認めている。