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街の灯
  (1931年 アメリカ)
  監督: チャールズ・チャップリン
  原題: CITY LIGHTS
  主要舞台: アメリカ
    「街の灯 コレクターズ・エディション」
DVD発売中:¥4,935(税込)
発売元:朝日新聞社
販売元:ジェネオン エンタテインメント
提供:日本ヘラルド映画/朝日新聞社
©Roy Export Company Establishment

  映画史上に燦然と輝く感動のラストシーン。そして、数あるチャップリン映画の中でも最もロマンチシズム溢れる愛の一篇。これぞ「泣き笑い」の極北である。
  全作『サーカス』(1928年)から三年。大恐慌。毋の死。持病の神経衰弱。そしてチャップリン自身の完璧主義(同じシーンの撮り直し五十回!)により、紆余曲折を経て完成した名作中の名作が本作『街の灯』だ。この三年の間にアメリカ映画界は、完全にトーキーの時代へと突入していたのだが、あくまでもトーキーを拒否するチャップリンは、サイレント映画として本作の撮影を敢行。結果、周囲の説得によって自身の作曲音楽と音響効果を付けたサウンド版として発表されることになった(次作『モダン・タイムス』まで同路線。チャップリンにとっての初完全トーキーは、なんと1940年の『独裁者』である)。十八番のパントマイムの演出に、まさに効果的に音響を組み込んだ卓抜なギャグ・センスは、「周囲の説得」とは思えない見事な出来映えだ。天下一品。完璧。
  「私はあくまでサイレント映画を続ける決心をした。娯楽というものには、あらゆるタイプが存在しうるという確信があったからである。それに、元々私はパントマイム役者だった。その限りでは誰にも出来ないものを持っていたつもりだし、心にもない謙遜など抜きにして言えば、名人というくらいの自信はあった」「サイレントあるいはダイアログなしの映画が、言葉の導入に伴うヒステリーのさなかで、一時的に隅に追いやられたからといって、その種の映画が消滅したとか終わりを告げたとかいうことでは断じてない。その雄弁な証拠が『街の灯』である。(中略)私はどうしてダイヤログなしの映画を撮り続けるのか。第一に、無声映画は全世界に通ずる表現形式である。トーキーは、どうしても領域が限られる。ある民族のある言語に縛られる」(チャップリン)。確かに。時代を越え、世代を越え、宗教を越え、五大陸の隅々まで、人々を楽しませ続けている唯一無比の男がチャーリーだ。
  ヴァージニア・チェリル演じる盲目の花売り娘とチャップリン演じるドタ靴のホームレスによる恋物語は、失明した道化師の実話を下敷きにしており、盲目の花売り娘にはチャップリン自身の毋の姿が投影されているともいわれている。何かと「女性問題」で世間を騒がせてきたチャップリンの、憧憬にも似た女性観が最も露に出た一篇であるともいえるだろう。
  時はゴールドラッシュの夢から叩き起こされた大恐慌の時代。底なしの不況によって街に失業者が溢れかえる頃である。繁栄をむさぼる資本家への強烈な皮肉、チャップリンの鋭い人間洞察が産み出す痛烈な社会諷刺も、本作の見どころである。

  冒頭、「平和と繁栄」記念像の盛大なる除幕式。はずされた幕の下、記念像の上にはホームレスのチャーリーが寝ている。いきなり痛烈な諷刺のカウンター・パンチである。
  街角で美しい花売り娘と出会ったチャーリーは、二人のやり取りの中で彼女が盲目であることを知る。自動車のドアの音で、優しいチャーリーのことを金持ちの紳士だと思い込む花売り娘であった。
  夜。岸辺で投身自殺を図ろうとしていた富豪を助けたチャーリーは、その富豪に気に入られ、一緒に夜を徹して豪遊することになる。しかし富豪は、酔っぱらっている時はチャーリーを親友扱いするのだが、しらふに戻ると一転他人扱いするのだ。この貧富コンビが繰り広げるギャグの連射は、まさにチャップリンの真骨頂。今も有効な古典的ギャグの連続に身を委ねてしまおう(飲み込んでしまった笛がしゃっくりのように止まらなくなり、挙げ句、数匹の犬がチャーリーになついて来る、というような馬鹿馬鹿しいギャグが特にいい)。
  そんなある日、チャーリーは、花売り娘が家賃を払えずにアパートから追い出されそうなことを知る。明朝までに金の工面をしなければならないチャーリーは、懸賞金付きのボクシング試合に参加。短篇時代の集大成ともいえる抱腹絶倒の拳闘シーンだ。
  当然のようにノックアウトされたチャーリーが街を彷徨していると、またもやあの富豪が登場。事情を知った富豪はチャーリーに大金を渡してくれるのだが、二人組の強盗とのドタバタの中で、チャーリーはまたもや豹変した富豪から犯人扱いされて逃亡するはめに。早朝、何とか花売り娘に家賃と目の治療代を渡すのであった。
  秋。数カ月後、刑期を終え刑務所から娑婆へ出て来たチャーリーがよれよれになりながら街をさまよい歩いていると、何とあの花売り娘が店を構え、しかも目が見えるようになっているではないか。見つめるチャーリーに、あわれな浮浪者を見る目の花売り娘。彼女が一輪の花と何がしかの金をチャーリーに手渡そうとしたその時、チャーリーの手の温もりによって彼女は気付くのである。「あなたでしたの?」「見えるようになった?」「ええ見えるようになりましたの」

  爆笑に次ぐ爆笑の末に訪れる、圧倒的なラスト・シーン。しかしこの献身的な愛の幕切れは、果たしてチャーリーにとってのハッピーエンドを示しているのだろうか?  ラスト・シーンで示される、チャーリーのどこか寂し気な表情、そしてカット・バックされる二人の手のクローズ・アップが、ある種、残酷な余韻を醸しているようにも思えるのだ。本作をハッピーエンドのメロドラマだと思い込んでいる者には、ある意味「お涙頂戴」の喜劇に映るかも知れない。しかし、最も脂の乗り切っている時期のチャップリンによる、絶妙な描写が醸し出す深い情緒に思いを馳せると、一人の男の、続きゆく人生の冷厳な荒野を見るようでもあるのだ。そう、永遠の受難者、ホームレス・チャーリーの旅はまだまだ終わることがないのである。
  1931年、『街の灯』のロンドンでのプレミアの際、ヨーロッパを取り巻きつつある不穏な気運に対してチャップリンは明白に意見を口にしている。「愛国心というのは、かつて世界に存在した最大の狂気だよ。私はこの何か月かヨーロッパの各国を回って来たが、どこでも愛国心がもてはやされていた。これがどういう結果になるかというと、また新たな戦争だ。願わくば、この次は老人を戦場に送って貰いたいね。今日のヨーロッパでは、真の犯罪者は老人なんだから」。
  そして三十年以上経った1960年代にも、チャップリンは変わることのないその考えを明言している。「600万ものユダヤ人が愛国心の名の下に殺されたというのに、人々はどうして愛国心などというものを許容出来るんだ?」
  なお、チャップリンの娘ジェラルディン・チャップリンは『独裁者』を、もう一人の娘ジョゼフィーヌ・チャップリンは『街の灯』を、父親のベスト・シネマに挙げている。

  「もうチャップリンはいない。けれどもチャップリンの『街の灯』のラスト・シーン。『独裁者』のヒットラーの風船ダンス。チャップリンは今も生きている。どの作品も今に生きる。どの作品も諷刺の針が笑いで飾られた。人の世の姿を、これ程鋭く見つめ、語り続けた彼は、映画のシェイクスピアだった」(淀川長治)