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チャドルと生きる
  (2000年 イラン)
  監督: ジャファル・パナヒ
  原題: THE CIRCLE
  主要舞台: イラン
    『チャドルと生きる』
発売・販売:ナド・エンタテインメント
販売代理:ケイエスエス販売
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  我々がイスラム社会をイメージする時、必ず思い浮かぶものの一つに、女性達が身に纏うチャドルと呼ばれる長いヴェールがある。西欧社会に於いて、往々にして、女性差別の象徴にされてしまうあの大きなヴェール。実際、男性社会が女性に対して無理矢理あのヴェールをかぶらせている場合に於いて、そこには厳然と物理的な女性差別が存在する訳ではあるが、しかしそれでも、異なる文化圏、宗教圏を理解する為には、そこにある宗教的背景、歴史的背景を直視しなくてはならないだろう。
  ことをイランに限ってみれば、やはりヴェール着用に関しての大きな契機は1979年のイラン革命である。それまでのパーレビ軍事独裁政権下では、女性のヴェール着用は比較的ゆるやかで、欧米にならった近代化政策により女性のヴェールを後進性の象徴とみなしていたのである。
  貧富の拡大、権力の腐敗、都市のスラム化が進行し、遂に1979年、民衆による大規模な反政府運動はイランにイスラム革命を呼び込む。革命運動時には、イスラムのアイデンティティを自覚するために、女性達は結束して自らヴェールを纏っていた(革命時のヴェール着用は、西欧近代化路線に対する強力なアンチテーゼであった)のだが、イスラム法学者ホメイニ師による新政権は、コーランの解釈を楯に女性の活動を極度に制限する政策を打ち出すのであった。そして、1980年には女性のヴェール着用強制令が出る。
  ホメイニ師の論理はこうだ。「女性は、資本主義の市場経済で、化粧品を始め、あらゆる商品の広告や宣伝に“もの”として商品化されてきたのであり、女性の美がこうした形で、消費用の商品になってしまった。したがって、女性の美を商品化から守るためにはヴェールが必要である」。女性こそが西欧の消費経済社会の犠牲者である、という論理である。イスラムのアイデンティティ、誇りの象徴であった女性のヴェール着用が、革命後には女性の活動を制限する道具として利用されてしまうという皮肉がここにはある。

  本作『チャドルと生きる』は、チャドルに身を隠し、呻吟しながらも静かに生き抜く、女性達の困難を描いた問題作である。全世界三十か国以上で上映され絶賛されているのにも関わらず、今だイラン本国では上映禁止。その事実だけでもイランに於ける女性の地位が十二分に伝わってくる。
  監督は『白い風船』(脚本はキアロスタミ)のジャファル・パナヒ。物語は、テヘランで生きる複数の女達の半日を追う形式だ。登場する雑多な女性達が街中ですれ違い、その度に「主人公」が移動しながら、それぞれの人生の断片がリレー形式で語られてゆくスタイルである。
  パナヒは語る。「何人もの女性達が出てきますが、彼女達は一人の女性だと言ってもいい。全てが一人の人に起こり得ることであり、一生がおよそ半日に凝縮されている訳です」

  冒頭はテヘランの、ある病院の分娩室。赤ちゃんの元気な産声が響いている。分娩室の覗き窓から看護婦が呼び掛ける。「ソルマズ・ゴラミさんの付き添いの方はいらっしゃいますか?」。親族の老婆に看護婦は言う。「元気な女の子が生まれました」。しかしその老婆は、看護婦に向かって、途方に暮れたように呟くのである。「超音波検査では男の子だと言っていたのに。女の子では離縁されてしまう」。新たな命は、女であるという理由によって、決して祝福されることがないのである。
  病院前の公衆電話にいる三人の女性は、刑務所から仮釈放された身だ。警官の姿を目にする度に逃げ惑い、身を隠す三人。彼女達は、煙草を吸う場所すらままならない。その内の一人は、故郷へ帰る為、長距離バスに乗ろうとするが、身分証明書、あるいは付き添い人がいないと女性の一人旅は許されない。窓口で懇願し、嘘をつく女性。
  妊娠してしまった未婚女性が堕胎の為に刑務所を脱走する。彼女は、やっとの思いで実家に辿り着くも、家族からは追い出されてしまう。堕胎に協力する医者のあてもなく、町を彷徨するしかない彼女。女一人ではホテルの宿泊すら無理なのだ!
  生活苦の為に、身を切られる思いで幼い娘を夜の街へ置き去りにして捨てようとする母親。「誰か優しい人が拾ってくれれば……」。胸詰まる、暗澹たる気分になるシーンだ。
  そして、警察に捕まった娼婦。刑務所の雑居房の覗き窓から顔を覗かせた看守が言う。「ソルマズ・ゴラミはいるか?」。勿論、雑居房の中にいるはずのない名前である。それは、冒頭で女児を産んだ女性の名前だ。

  物語は、分娩室から刑務所までの、終わることのない人生の円環として閉じられる。パナヒは言う。「全ての困難は円を成しています。人は誰しもそうした円の中で生きているのではないでしょうか」。
  ここにあるのは、未解決のまま放り出された女性達の個々の物語である。女性達のそこにいる理由も、またその末路も、ストーリーの中で具体的には示されないのだ。しかし、一切の説明を排した、詩情溢れるこの映像の、何と雄弁なことか。女性達が円環から脱出を試みようとしても、全ては円環の中に終着させられてしまうのだ。イランに於いて女性として生まれるということ、ひたすら続く円環の意味を、パナヒは(イランの)男達に問うている。本作は本国イランでこそ上映されなくてはならないのだ。
  ちなみにイラン政府は、ここ数年、映画に新たな検閲項目を増やしている。以下の通りだ。「女性のクローズ・アップや化粧の禁止。非道徳的な登場人物に伝統的イスラム教徒の名前を付けない。女性が走っているところは撮影しない(体のラインが強調されるため)」。本作は見事に上記検閲項目の全てを破っている。