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終電車
  (1980年 フランス)
  監督: フランソワ・トリュフォー
  原題: LE DERNIER METRO (THE LAST METRO)
  主要舞台: フランス
    フランソワ・トリュフォーDVD-BOX「14の恋の物語」[II]」に収録
発売元:日本ヘラルド映画
販売元:ポニーキャニオン
品番:PCBH-60002
価格:¥18,000(税抜)4枚組

  1969年、トリュフォーはカトリーヌ・ドヌーヴを以下のように論評している。「いつも不思議な、割り切れない、一種の“あいまいさ”をもたらす女優だ。どんな状況も、どんな物語も、彼女がそこに入り込んで来たとたんに二重の意味を持つことになる。その背後には何か秘密の考えが隠されているに違いないという印象を与えずにはおかない存在なのだ。そうした“あいまいさ”“二重性”が次第に形をなして映画の風土を作ってゆくのである」
  『暗くなるまでこの恋を』(1969年)で彼女の持つそんな魅力を充分に生かし切れなかった思いの残るトリュフォーは、十年後、その雪辱戦として、「ナチス占領下の恋愛劇」という設定を彼女に与えた(『暗くなるまでこの恋を』にあったジャン・ポール・ベルモンドのセリフ「あなたを見るのは喜びであり苦痛です」を、この『終電車』の劇中劇の中でも繰り返し用いている。なお1970年前後、トリュフォーとドヌーヴは同棲生活にあった)。
  ユダヤ人の夫を匿う女。気丈な女座長。新人俳優との恋。恐怖の夜。閉塞感と不安。それらのエレメントは全てドヌーヴの為にこそ生きている、という錯覚を本作は観る者に与える。中途半端な「魔性」では持ち堪えられない、そんな時代状況の設定でもあった。
  自伝的『大人は判ってくれない』の時代設定を、低予算の為、自身少年時代を過ごしたナチス占領下のパリに置けなかったトリュフォーは、その悔恨を本作で幾分かは解消している(劇中のモンマルトル劇場管理人の息子と、占領当時のトリュフォーは同じ歳である。トリュフォーは言う。「この映画の中で子供が大きな役割を演ずることはないのですが、不思議に『終電車』を支配しているのは子供なのです。つまり、私が子供だった時のものの見方とでも言いましょうか、そんなものがこの映画を支配していることに、撮り終わってから気が付きました」)。
  本作『終電車』は、トリュフォーにとって『アメリカの夜』(1973年)に続く劇中劇映画で、遺作から逆算して三つ目、晩年の集大成的大作である。

  舞台は1942年、ナチス占領下のパリ。ユダヤ人狩り、密告、レジスタンスの時代である。人々は、夜十一時以降の外出禁止令により地下鉄の終電車に殺到するが、逆に閉塞の時代は映画館や劇場に活況を与えている。
  厳しい監視下で興行を続けるモンマルトル劇場の支配人は、ユダヤ人演出家のルカ・シュタイナー(ハインツ・ベネント)。摘発目前に逃亡、というのは表向き、実際は劇場の地下室に潜伏している。よって劇場は、看板女優でもあるルカの妻マリオン(カトリーヌ・ドヌーヴ)が切り盛りしている。
  ルカの脚本『消えた女』の舞台を成功させる為に抜擢された、主演男優ベルナール・グランジェ(ジェラール・ドパルデュー)は生粋の女たらしで、マリオン以外の女性達に次々アタックしてゆく。しかし彼にはもう一つの影の顔がある。レジスタンスの闘士でもあるのだ。
  芝居に情熱を燃やす人々。親ナチスの演劇評論家による企み。地下室の夫婦関係。マリオンのベルナールへの秘そかな恋情(地下室のルカにすれば、まさに「消えた女」である)。
  たれこめるナチスの暗い影の中、それでも生きなくてはならない一人一人の姿を、むしろ軽快に巧みに人間模様を折り込んで展開するトリュフォーの演出である。
  劇場地下に潜み、舞台稽古に耳を傾け、ひねもす妻の来訪を心待ちにするルカの姿に「悲惨」はない。何故なら彼は生きているから。希望があるから。愛があるから。芝居があるから!
  戦後、現実と劇中劇が交錯するラストシーンは見ごたえ十分で、マリオンがルカ、ベルナールの双方と手を取り合うカーテンコールの大団円の解放感は、ドヌーヴの魔性の持てる技である。

  残る余韻は「いい映画を観た」という感慨だ。評論家時代の若きトリュフォーが徹底的にやり込めた、先人達の「フランス映画のある種の傾向」が、この『終電車』では全開なのである(50年代、映画監督になる前のトリュフォーは、評論家として「フランス映画の墓掘り人」と揶揄されるまでに、フランス映画の「良き伝統」を容赦なく根こそぎ告発した。のちに彼は自分の「やりすぎ」を認めている)。
  あまたの実話に基づいた本作は、「熱狂的映画少年」が作った、優れた熱狂的恋愛劇であり(トリュフォーは、逆説的に「伝統主義者」だ)、意図せずして「巨匠の映画」でもあった。何故なら、観終わった後に、猛烈にトリュフォーやドヌーヴの他作を観たくなるからだ。
  「この映画はこの女優でなければ成立しない」と観客に思わせること。そう、トリュフォーの勝利である。

  「世界の映画の流れを変えたと自負するヌーヴェルヴァーグの他の監督とは違って、トリュフォーは決して自分が世界の中心だというおごり高ぶった思いに酔ったことはなかった。彼の作品には常に変わらぬナイーブな映画への愛が輝き続けた。(中略)昔ながらの男と女の物語を、昔ながらの口調で、しかし心を込め、親しみを込めて、語り続けたのである。ジャン・リュック・ゴダールやアラン・レネのように常に新しい形式を提示する前衛作家ではなかった。いかに古臭くても、彼は物語を語ることを望んだ」(映画評論家山田宏一)