オンライン魂花時報WELCOME TO NAKAGAWA TAKASHI'S WORLD中川敬のシネマは自由をめざす!リスト > プロミス
NAKAGAWA TAKASHI'S ALL CINEMAS GO FORWARD TO FREEDOM !
プロミス
  (2001年 アメリカ)
  監督: ジャスティーン・シャピロ、B.Z.ゴールドバーグ、カルロス・ボラド
  原題: PROMISES
  主要舞台: パレスチナ
    『プロミス』
発売・販売:アップリンク
¥4,935(税込)
公式サイト uplink.co.jp/film/promises/
◎全国のDVDショップ、および UPLINKのwebshopで好評発売中
◎全国での自主上映プロジェクトあり、詳細は上記HPまで

  「戦争反対」という形骸化した物言いは、常に人々の注意をことの本質から遠ざけ、侵略する側に有利な情緒を産み出し続けている。戦争はいけない、だから喧嘩両成敗だという論理である。しかし当たり前の話だが、戦争というものには常に仕掛ける側がおり、侵略する側が厳然といる訳であって、抵抗する人々あってこそ初めて「戦争状態」は作り出されるのだ。
  報復の連鎖を断て!と、例えばパレスチナ人民に、イラク人民に対して言うことの滑稽さよ。我々は、アメリカ政府やイスラエル政府の非道な侵略にこそ、断固反対の声を上げるべきであって、何となく「戦争反対」することの害毒を、いい加減知るべきだろう。
  シャロンがイスラエルで政権を取って以来、パレスチナ情勢の悪化、悪逆非道な殺戮は目に余るものがある。ここ日本でも、アラブ人による「自爆テロ」とユダヤ人による「国家テロ」が、良くても等価に扱われ、解決不可能な印象が情報産業によってばらまかれ続けている。しかし本質に立ち返れば、ことは明白だ。イスラエルによるパレスチナ侵略をやめさせるしか解決の手立てはないのである(まずはヨルダン川西岸地区、ガザ地区からのイスラエル軍撤退だ)。
  歴史上「パレスチナ問題」は往々にして宗教と民族の問題にすり替えられて、あたかも中東の地に普遍的対立の因子が存在していたかのような錯覚が喧伝され続けているが、それは侵略する側の論理というものであって、イスラエルという存在を正当化する為に産み出された方便でしかない。長年、彼の地には多くの宗教を持った者達が混在して暮らしているし、アラブ人とユダヤ人は殆ど同じ民族的背景を持っている間柄なのだから(例えばモハメッドはユダヤ系だ)。「パレスチナ問題」を産み出した要因が政治と暴力である以上、解決の手掛かりも政治(話し合い)と抵抗でしかありえないのだ(過去の事例をみても、独立、解放はそのようにして得られている)。
  絶望的状況の中にみる一筋の希望の光。本作『プロミス』に込められた願い、希望は、混迷する当節の中東情勢に於いても依然重要だ。功罪相償う感もある本作の「罪」の方は、ことを喧嘩両成敗にしてしまう「中立性」にこそあるが、それでも、この映画は多くの人々に観られるべきであるし、「政治以前」の存在である子供達の、未来を射抜く希望を宿した眼差しに対して、大人達は何がしかの回答を早急に示すべきなのである。

  本作『プロミス』は、少年時代をイスラエルで過ごしたユダヤ系アメリカ人 B.Z.ゴールドバーグらが、イスラエル、パレスチナの、双方の子供達に出会い、彼らの剥き出しの言葉と表情を活写した渾身のドキュメンタリーである。和平交渉が進み、現在よりは比較的平穏であった1997年から2000年にかけて撮影は行われ、和平への希望を多くの人々が抱いていた段階に本作は完成した。つまりオスロ合意(1993年9月のパレスチナ暫定自治合意)後から、アル・アクサ・インティファーダ(2000年9月以降の第二次民衆蜂起)までの時期である。
  登場するのは、八歳から十二歳までの七人の子供達だ。ほんの20分の距離で暮らしながら、出会うことなく別世界に住む子供達。西エルサレム(イスラエル人地区)に住む、比較的リベラルな環境にあるユダヤ人の双子兄弟、ヤルコとダニエル。エルサレムから10分、イスラエル軍に激しい攻撃を受けたデヘイシャ難民キャンプに住むアラブ人、ファラジとサナベル。東エルサレム(パレスチナ人地区)に住むハマス支持者のアラブ人、マハムード。エルサレム旧市街のユダヤ教徒地区に住む超正統派ユダヤ教徒、シュロモ。ヨルダン川西岸地区のベイト・エル入植地に住むゴリゴリの右派ユダヤ人、モイセ。立場を分けた彼らの前に横たわるのは、大人達による政治力学と検問所だ。
  敵対する大人社会をそのまんま映し出す子供達の言葉の断片は、無邪気さの一方で、当然、圧倒的事実を提示する。例えば、アラブ人に一度も出会ったことがないユダヤ人のモイセだ。「自爆テロ」によって友人を亡くした彼は、復讐を誓い、自分が最高司令官になれば「アラブ人を一人残らずエルサレムから追い出す」と話す。ハマスを支持するマハムードは、「ユダヤ人と話なんて、するだけ無駄だよ。預言者ムハンマドの時代から今までずっと、騙したり裏切ったりするずる賢い連中だもの」「女の人や子供を殺すのは国の為だ。だってユダヤ人を殺してゆけばその内いなくなるだろう?  だからテロをする」と話す。
  ある日、監督のゴールドバーグは、ユダヤ人のヤルコとダニエル、アラブ人のファラジとサナベルに、お互いに一度会ってみないか?  と持ち掛ける。互いを殺人鬼のように教えられてきた双方の子供達にとって、「会う」という決断は相当に勇気を要することなのだ。
  ファラジとサナベルは、ユダヤ人の子供と会うことが良いことなのか、友人達と話し合う。五歳の時に友達がイスラエル兵に殺されるのを目撃したファラジは、当初、頑なに反対するのだが、回りの子供達に諌められる。サナベルは言う。「どうしてそんな風に決めつけたりするの?  ユダヤ人に私達の気持を伝えたことが(あるの)?  パレスチナ難民としての境遇を説明した?  一度もないから必要なの!  アラブ人とユダヤ人には対話が必要だわ!」
  ファラジは、ゴールドバーグから携帯電話を借り、ついに双子と電話で話をする。緊張しながらスポーツや食べ物の話をする両者。そしていよいよ交わされた会う約束。
  初めてパレスチナ人難民キャンプに入るヤルコとダニエルにとって、検問所も、壁の銃痕も、ハマスのスローガンも、全てが驚きの連続。しかし子供達は、互いに緊張を振りほどき、遊び、踊り、食卓を囲み、精一杯話し合うのであった。
  たった一日だけの出会いと笑い。それでも前進だ。何故なら、彼らお互いの目の前にいたのは殺人鬼なんかではなく、人間の子供だったのだから。
  最後にファラジが、急にみんなの前で涙を流すシーンがある。我々はこの涙の意味こそを噛み締めなくてはならないのだ。

  きっと本作のような映画は、当事者であるイスラエル人、パレスチナ人には作れなかっただろう。あらゆる芸術表現に「中立性」などというものはありえないが、それでも「第三者」であるからこその目線、姿勢、感受性というものこそが、往々にして優れたドキュメンタリー映画を作り得るということを、本作は実証している。
  「人は他人の不幸には徹底して不感症だ。でもだからこそ、国家や宗教組織という共同体を短絡的に主語にするのではなく、一人一人の営みを可能な限り見つめたい。それがドキュメンタリーの領域なのだ。人類がどうしようもなく愚かで同じ過ちを繰り返すとしても、作品はそれを観てくれた人をほんの少しくらいは動かす可能性がある。そしてそんな人達が、きっといつかは世界を変えるのだと思う」(森達也)
  欧米各国の後押しを受け、一方的にシオニストによってパレスチナの地にイスラエルが建国されて五十六年。アラブ全域に散在を余儀なくされているパレスチナ人民の、言語を絶する苦闘は今も続いている。
  最後に、パレスチナの悲劇的現実を象徴する、本作DVDのパンフレットにあった登場人物の少年、モタシムの、映画完成後(シャロンの圧政以降だ)の発言を引用しよう。「武力による闘い以外に解決方法はない。僕は今すぐにでもイスラエルに行って、自爆する心の準備が出来ているんだ。これには宗教的な理由はない。僕自身、宗教的な人間じゃないからだ。死んで天国に行って、アッラーの隣に座るだなんて信じてやしないよ。そういう類いのことは何も信じていない。(中略)同胞の子供達の人生がより良いものになる可能性があるなら、自分の死が役に立つと信じて、自爆しても構わない。(中略)どうせ最後は死ぬんだから。今だって死んでいるようなものさ」