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勝手にしやがれ
  (1959年 フランス)
  監督: ジャン・リュック・ゴダール
  原題: A BOUT DE SOUFFLE (BREATHLESS)
  主要舞台: フランス
    DVD:¥5,040
品番:ASBY-1429
発売元:アミューズピクチャーズ/東芝デジタルフロンティア
販売元:アミューズソフト販売

  「それは爆弾のように炸裂した。たった一本の映画で、ゴダールは“明日の映画”を発明したのである」(アレクサンドル・アストリュック)

  原案フランソワ・トリュフォー。監修クロード・シャブロル。撮影ラウル・クタール。主役にジーン・セバーグ、ジャン・ポール・ベルモンド。役者は揃った。新たな波(NOUVELLE VAGUE)の到来である。

  長篇処女作にしてゴダールの文体は既に確立されており、当時驚きと困惑をもって迎えられた本作も、今では映画史に残る不朽の古典である。
  無作為抽出された迫真的現実や、ゴダール特有の詩的で空虚なコトバが全編に散りばめられ、既成の映画文法を一切無視した斬新な作風、即興演出、脈絡無きジャンプ・カット(元来、上演時間短縮の為に取られた苦肉の策)、ハンディによる街頭オール・ロケ、唐突なクローズアップ、無数の引用などなどは、圧倒的に映画史の常識、スタンダードを覆した。そしてその多大な影響力は、ハリウッドはもとより世界中の映画界に於いて、もはやそれらを「当たり前」にしたのである。
  ヌーヴェルヴァーグ運動は、『カイエ・デュ・シネマ』誌の同人達、若き怒れる評論家達による革命であった。そしてその中心にいたのがトリュフォーとゴダールである。60年代後半以降、永遠に袂を分かつことになる二人の、共闘のピークがこの『勝手にしやがれ』なのだ。『大人は判ってくれない』で半歩先に映画監督として認知されていたトリュフォーに反して、ゴダールの方は、自身の書いたシナリオがことごとくプロデューサーに却下される状況にあった。そんな中、トリュフォーがゴダールに譲ったシナリオが『勝手にしやがれ』のオリジナル・ストーリーなのである。
  ゴダールは当初、トリュフォー同様、このシナリオの主役にシャルル・アズナブールを希望したが、同時期に撮影に入ったトリュフォーの『ピアニストを撃て』の主役がアズナブールであった為に、『勝手にしやがれ』には別の無名俳優が起用されることになったのだ。こうして、ジャン・ポール・ベルモンドとジーン・セバーグという、イコンとしての「理想のカップル」が映画史に誕生したのである。
  原題は「息切れ」。映画評論家の秦早穂子による邦題は、新しい映画の劇的登場、新しい波の息吹きを伝える、見事な解釈である。「最も独創的な、すなわち最も非模範的な映画作家」(ジャック・リヴェット)のデビューだ。

  冴えないチンピラ、ミシェル・ポワキャール(ジャン・ポール・ベルモンド)は、マルセイユで自動車を盗み、訊問しようとする警官を射殺してしまう。パリへ逃亡し、アメリカ人留学生パトリシア(ジーン・セバーグ)と再会、二人の気ままなデートが始まる。
  ひたすら無謀でナンセンスなミシェルの言動、そしてキュートで自由なパトリシア。
  パトリシア「何してるの?」。ミシェル「脱がしている」。パトリシア「ダメよ、今は」。ミシェル「まったく頭にくるぜ」。パトリシア「フォークナー知ってる?」。ミシェル「いや、誰だ?  寝た男か?」。パトリシア「違うわ、バカね」。ミシェル「なら興味ない。脱げよ」。パトリシア「好きな作家なの。『野生の棕櫚』読んだ?」。ミシェル「読んでない。脱ぎな」。パトリシア「最後の文章、素敵よ。“傷心と虚無では、私は傷心を選ぶ。”どっちを選ぶ?」。ミシェル「足の指を見せろ。女は足の指が大切だ」。パトリシア「どっちを選ぶの?」。ミシェル「傷心はバカげてる。虚無を選ぶね。傷心は一つの妥協だ。全てか無かだ。今それが判った」。
  やがて警察の追手が迫り、パトリシアはミシェルとの関係を確かめるかのように、ミシェルの居場所を警察に密告してしまう。
  彼女の一番欲しいものは自由。旅仕度をしているミシェルに「あと10分で警察が来るわよ」と言う。ミシェルの心に広がる虚しい自嘲と絶望。
  警官に背後から射たれたミシェルはよろめきながら道路を駆ける。
  「最低だ」とつぶやいた息も絶え絶えのミシェルを冷ややかに見つめながら、パトリシアは言う。「最低って何のこと?」

  ジョナス・メカスは言う。「『勝手にしやがれ』は空虚で不道徳だといわれる。しかし、その形態と内容に於いて、本作ほど完璧にいかがわしい価値から解放されている映画が他にあるだろうか?  過去もなく、未来もなく、ただ現在だけにゴダールは興味を示す。『勝手にしやがれ』は、無垢で、道徳的で、真理である。人間に何かを企てたり、人間を歪曲したりしない。知ったかぶりをせず、謙遜に人間を見つめている。科学的僧侶のようなゴダールは、現代生活を抽出し、合成する。そして、彼自身の道徳的判断を表明する。これは科学であり、芸術である」
  1998年の秋、ソウル・フラワー・ユニオンのシングル <イーチ・リトル・シング> のプロモーション・ヴィデオの監督に、我々は、若松孝二監督(『処女ゲバゲバ』『赤軍ーPFLP・世界戦争宣言』『水のないプール』等々)を起用したのだが、アイルランドのディングル半島のさびれたパブで、映画監督になった動機を彼から聞いたのであった。御大いわく「映画の中なら何人警官を殺してもいいだろう」。まったく!「奴らを殺す為に映画監督になったんだよ」
  映画も音楽も、体制に囲い込まれた「いかがわしい価値」から解放されていなければ存在の意味はない。倫理規定は自分でやるから、お構いなく!
  海が嫌いなら、山が嫌いなら、都会が嫌いなら、勝手にしやがれ!