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オープニング・ナイト
  (1978年 アメリカ)
  監督: ジョン・カサヴェテス
  原題: OPENING NIGHT
  主要舞台: アメリカ
    タイトル:「オープニング・ナイト」DVD
発売元:東北新社
価格:¥3,990(税込)
発売表記:DVD発売中
作品公式サイトURL:www.tfc-dvd.net

  山あり谷あり。はたから見たカサヴェテスの監督人生は常に、彼の突出した芸術至上主義とメジャー商業主義との葛藤の上にあり、高水準をキープし続けた彼の作品群の知名度には、あまりにバラツキがあり過ぎる。基本的に良く知られている『アメリカの影』『フェイシズ』『こわれゆく女』『グロリア』等以外の作品の、無惨な興行結果とそれに付随する評価は、彼の映画人生に於ける作品の実質とあまりにかけ離れているのだ。
  「売れる映画」なんて自分には作れない、と明言し続けたカサヴェテスは、常に、映画(芸術)に対して誠実であり続けたし、「のめない話」に対して毅然と NO を言えた男でもあった。そして、彼の批判の鉾先はいつだって、「安定」を選択する同業者に向かっていた。どいつもこいつも、あまりに芸術を無視し、物事を考えなさ過ぎると(異議なし!)。
  気兼ねなく自己表現を貫徹させる為に独立資本で時間を掛けて一本の映画を作り、経済的に困窮を極めれば、役者として金を稼ぐ。ハリウッドをほされても、素晴らしい仲間達と再び名作をひっさげ「復活」する。カサヴェテスの映画人生は、苦難の連続ともいえるし、崇高な目標の為に闘い抜いた幸福な人生であったともいえるのだ(そして俺は、他の誰よりも彼に共鳴する者だ)。
  本作『オープニング・ナイト』は、「ハリウッド史」側からみると「谷」にあたる。信じられないことに、この名作(ホントに!)は、クライム・サスペンスの傑作である前作『チャイニーズ・ブッキーを殺した男』同様、公開当初、本国アメリカでは興行的にも批評的にも(無視に近い程、批評自体が少なかったらしい)惨憺たる結果に終わり、独立資本の為に多額の借金だけを残し、公開から数日後に映画館から姿を消す運命にあったのだ。「百五十万ドル程かかっている。僕が借金したんだ。ひどい経験だった。僕は自分の全精力を使い果たした。大丈夫、何とかやれるさと言いながらね」(カサヴェテス)
  本作にしかるべき「栄誉」が与えられたのは、逝去(1989年)の前年、ニューヨーク映画祭でカサヴェテスの全作品回顧上映が行われた時であった。「起伏の激しいドラマやユーモア、従来の映画にはない映像的魅力」(『ヴィレッジ・ヴォイス』誌)。完成から十年である。90年代以降の自由な映画文法に馴れた者に言わせれば、結局「早過ぎた」ということか(いや、馬鹿どもが「遅すぎた」のだ)。

  マートル・ゴードン(ジーナ・ローランズ)は有名な舞台女優。四十を過ぎた彼女の人生は舞台に捧げられ、独身を貫いている。
  『二番目の女』という劇を巡演中のある夜、楽屋口でマートルを取り囲む熱狂的なファンの中に、泣きながら「アイ・ラヴ・ユー」を繰り返す感極まった若い女がいる。ナンシーと名乗る十七歳の彼女は、豪雨の中をマートルの乗った車に追いすがり、反対車線の車にはねられ、息を引き取る(『オール・アバウト・マイ・マザー』の似たシーンは、カサヴェテスへのオマージュだろう。アルモドバルは実際『オープニング・ナイト』をベスト・シネマに挙げている)。目前の事故に衝撃を受けたマートルは、以降、次第に精神バランスを崩してゆくのであった。
  あいまいになってゆく現実と劇の境界。
  現実と劇中にいる老いた自分(二番目の女)と、死んだ娘ナンシーの幻影として現れる若かった自分(一番目の女)との葛藤が、マートルの心を乱してゆく。彼女は、老いた女という役どころを拒否し勝手に台詞を変え、舞台を即興劇に混乱させたり、またある時は、ホテル自室で幻影のはずのナンシーに襲われたり……。
  錯乱したマートルは、ニューヨークでの初公演日、開演直前に泥酔状態で現れる。歩くのも覚束ない状態の彼女に、上演中止の声もあったが、演出家のマニー(ベン・ギャザラ)は、開幕強行を決定する。
  進行する劇。しかしマートルは、舞台の持つ磁力か、尻上がりに調子を取り戻し、自分自身(二番目の女)として見事に「勝利」するのであった。
  終演時の大喝采。そこには、若さという名の幻影(一番目の女)に、女優として打ち勝ったマートルの輝かしい姿があった。

  前々作『こわれゆく女』で中年女性の不安定な心理を見事に演じたジーナ・ローランズ(『フェイシズ』の項参照)が、ここでも似通った主題、精神バランスを崩した中年舞台女優という難役を、素晴らしい表現力で演じきっている。その真に迫った表情の断片は、今も胸に刻印されたまま鮮明にある。
  「十七歳の頃は何でも出来た。ただ感情の赴くまま動けば良かった。だが、それが次第に難しくなってきた」という、冒頭のマートルの独白は、老いゆく殆どの表現者(勿論ミュージシャンも例外ではない。俺も理解出来るところにいる)にとって、実感であろう。特に、「若さ」を基準にした好奇の目に晒され続ける女性にとっては、人によっては、重大な苦痛を伴う大問題だ。しかし本作が問うのは、年齢に関する議論だけではない。舞台に立つ者が「分類」され「定義」されることに関する議論だ。ジーナ・ローランズ(マートル)は、役どころに実人生を重ね合わせながら、「時間」という敵を味方にしてしまう、素晴らしい生きざまを我々に示してくれているのだ(のちの全出演作品にも当てはまる)。
  なお、劇中劇『二番目の女』の夫役はカサヴェテスで、劇中でのカップル役はこれが唯一。ラストシーンで、カサヴェテスの『ハズバンズ』以来の盟友ピーター・フォーク(『刑事コロンボ』。『こわれゆく女』の夫役)が友情出演している。
  テレビ出演時のカサヴェテスの発言を引こう。「この映画はすごい。誰もがこの映画を観るべきだ。というのも、これは他の映画よりもいいからだ!  全くその通りなんだ。悪いけどベイビー、全くその通りなんだ!(中略)CBS、NBC、ABC …… テレビの影響力なんてどうでもいい!」

  カサヴェテスは、本作の興行的失敗で多額の借金を抱え、以降、活躍の場を舞台、脚本に移してゆくのだが(映画界への失望もあった)、棚からぼた餅、脚本家として安請け合いしたハリウッド映画『グロリア』の監督を渋々引き受け、興行的にも、作品的にも大成功をおさめるのであった(主演のジーナ・ローランズがまたまたまたまた素晴らしい!!)。
  「(ハリウッドでは)みんなが他人の顔を伺っている。そろそろ成長する時だ。そろそろ芸術を取り上げて、“さあ、ベイビー、何かを見せてくれ”と言う時だ。僕らは何かを見せている。何かを見せている監督はそんなにいない。外に出て、今のこの世界で自分達を賭けている監督はそんなにいない。というのも、誰もが恐がっているからだ。うんざりだよ。監督は、会社がすごいと言ってくれてヒットするであろう何かを、撮影現場に見に行くだけだ」(カサヴェテス)
  この話は、そのまま日本(業界)のミュージシャンに置き換えられる。