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原爆の子
  (1952年 日本)
  監督: 新藤兼人
  原題: GENBAKU NO KO
  主要舞台: 日本
    「原爆の子」
DVD発売中:¥4935(税込)
発売元:アスミック
販売協力:ジェネオン エンタテインメント

  新世紀に突入すれども、いまだ戦火絶えざるこの人類社会。「20世紀はあまりの悲しみに大地が震えた時代」と言ったのはグアテマラの女性活動家リゴベルタ・メンチュだが、見ての通り、一部の狂人の軍事信仰による非道な殺戮は、やむどころか激化しているのが当節の現状だ。
  人類社会から戦争はなくならないなどというような運命論は、非戦闘員が瞬時にして大量殺戮されるようになったのがここ百年ぐらいのことである、という事実をもってして無効だ。我々は大震災などで天災の恐ろしさをいやというほど実感させられたが、しかし、こと「戦争」に限って言えば、それは人為である。「戦争」自体を憎んだり、恐れたりしても、人為である以上、仕掛ける者達の行為を止めなくては、何の解決にもならない。そう、人為である以上、逆に言えば止めることも可能なのだ。
  アメリカによる民間人大量虐殺史の先鞭をつけたのは、間違いなく、1945年の広島・長崎原爆投下(と東京・大阪などへの大都市空襲)であろう。そこで生活する無辜の市民を虫けらのごとく、殺虫剤で殺すかのように大量爆殺する恐るべき所業。勿論、天皇日本によるアジア人民大虐殺あっての対米戦ではあるが、ことは往時の国家間の軍事均衡、政治力学で済まされる話ではない。殺したのは国家であり、殺されたのはあまたの個人なのである。戦犯といえば、天皇裕仁同様、アメリカも裁かれてしかるべきである。
  閃光に焼かれて即死した者。焼けただれた体に苦しみ、悶死した者。残留放射能を浴び、ケロイドの為に青春を奪われ、死への恐怖を抱えながら苦しみ果てた者。異国へ強制連行され、被爆した上に如何なる補償もされずに死んでいった者。そこには、一人一人の人間の、言語を絶する、凄惨で冷酷非情な終焉があった。自己の不注意でもなく、天命を全うしたのでもなく、虫ケラのように殺された人生だ。そういった非業の難死と、「(戦争責任を問われ)そのような言葉のアヤについては私は、文学関係を研究していないので良く分からぬ。原爆投下は戦争だから仕方なかった」と言い放った、天皇裕仁の老衰死を比較し、あらためて、極端に過ぎる「死の不平等」に慄然とするのだ。

  本作『原爆の子』は、いまだ原爆投下の記憶も生々しい1952年の広島をオールロケで描いた、新藤兼人の第二作目である。当時、敗戦国日本では、当然アメリカ批判に繋がる「原爆問題」はタブーであった。新藤は、誰に気兼ねするでもなく自由に映画制作をする為に、自主制作の道を選んだのであった。脚本も、本来シナリオ・ライターである新藤自身によるもので、原爆を被災した広島の子供達が綴った作文を元にしている。元宝塚で大映のスター乙羽信子の自主的参加や、広島市民からの盛大な応援の後押しを受けたこの低予算映画は、現在に於いても、「原爆」を知る上でかかせない重要な作品である。
  「私が『原爆の子』に執着したのは、私が広島で生まれ、広島を我が街と思ったからである。私自身がピカの一発を受けた思いが強かった。一発の爆弾で一つの街が吹き飛ばされるようなことを誰が想像したであろうか。しかも無警告、一般市民に対してだ。(中略)広島は地獄だった。ピカッと光った熱線に焼かれ、ドンと音がして吹き飛ばされ、電車に乗っていた者はそのまま焼かれ、生き残った者は焼けた皮膚を垂らして幽鬼となってさまよった。ここは戦場ではないのだ。一般市民の街なのだ。私は戦争から帰り、広島を見て、茫然とした。広島がないのだ。七つの川が光っていて、海がじかに見えるのだ。どれほどのものが一挙に失われたか、私に分かるのは、私が少年の日、毋に連れられてしばしば映画を見たり、うどんを食ったりした思い出があるからだ。(中略)人間は、家族と共に家に住み、生活をして絆をつくり、あたためあう。世界の人間がそうして生きている。それをぶっつぶすヤツに、私達は一言も抵抗出来ないのか?」(新藤兼人)

  舞台は1952年の広島。原爆投下時広島におり、家族の中で一人だけ生き残った石川孝子(乙羽信子)は、瀬戸内海の小島で教員をしている。当時勤めていた幼稚園の園児達の消息が気にかかった孝子は、夏休みを利用して七年ぶりに広島を訪れた。
  あたり一面焼け野原であった広島の町は、恐るべき速度で復興しているかのようだ。孝子は、幼稚園での同僚、旧友の夏江から園児の住所を聞き、中学生になっている彼らを次々と訪問してゆく。
  三平は、子沢山な貧しい親の元、靴磨きをして家計を助けている。戦災孤児の敏子は原爆症で、教会に引き取られている。平太も両親を亡くし、兄姉に養育されているが、明るく窮乏生活を生き抜いている。
  そんな中、孝子は、亡き父母の下で働いていた岩吉(滝沢修)に偶然出会う。変わり果て老衰した岩吉は、息子夫婦を原爆で失い、盲目になり、七歳になる孫の太郎とバラック小屋で暮らしているのであった。二人のあまりの窮乏に、孝子は、自分の住む島への移住を進言するのだが、岩吉は頑として承知しない。原爆により心身共に疲れ果てた岩吉にとって、広島で太郎と生き抜くことだけが、譲れない生き甲斐なのであった。
  しかし岩吉は逡巡の末に決心する。孫の将来を思いやり、太郎のみ島へ送りだすのであった。

  このセミ・ドキュメンタリーが圧倒的なのは、何を差し置いても、子供達の、未来を射抜くその視線、輝く表情にある。心身に深い傷を負いながらも、希望を携えて「今」を生きる子供達のけなげな強さ。
  半世紀以上の時が経ち、原爆投下当時十歳の被爆者も七十歳である。原爆症により亡くなった人も多いが、現在も諦めることなく実体験から核の恐ろしさを訴え続けている被爆者も沢山いる。彼らの中に生々しくある風化しない記憶は、そのまま現在の戦場に通づる。我々は、自ら積極的に、彼らの伝えたい「記憶」に触れなくてはならないのではないか。
  劇中でも描かれているが、当時の広島の庶民は、「ピカドン」とともに排出された残留放射能の恐ろしさをまだ知らず、原爆症を原因不明の病気と位置付けていた(漫画『はだしのゲン』で、モルモットのごとく、GHQ への献体を奨励する医者が描かれていた)。GHQ はもとより、日本政府の棄民政策には今さらながらハラワタの煮えくり返る思いだ。
  「原爆」に関しては多くの卓見があるのでそちらに譲るが、「反核」というワンフレーズに収斂して形骸化させてはならない、被爆国として次世代に伝えるべきことが山のようにある。
  劣化ウラン弾、原発、原水爆は「同じもの」だ!