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灰の記憶
  (2001年 アメリカ)
  監督: ティム・ブレイク・ネルソン
  原題: THE GLEY ZONE
  主要舞台: ポーランド

  ナチス・ドイツによるホロコーストを描写した映画は多々あるが、ユダヤ人自らによるレジスタンスを描いたものは殆どなかった。まるでそういった事実がなかったかのように。しかし当然、彼らユダヤ人とて、ただ座して死を待っていた訳ではなく、多くの抵抗や蜂起の事実が報告されている。えてして「歴史」は、「記録」として大状況に収斂されてしまい、個々の「記憶」を曖昧なものにしてしまうが、いつの世もあまたの抵抗によって抑圧者が敗北を喫してきた、という事実を見逃してはならない。独裁者(ナチス・ドイツ、天皇日本、ファシスト・イタリア)は何も連合軍だけに負けたのではない。世界中の、あまたの抵抗者達の勇気に打ち負かされたのである。
  本作は、1944年10月7日、ポーランド南部のアウシュビッツ絶滅収容所(『夜と霧』の項参照)で実際にあった、ユダヤ人による決死の蜂起をドキュメンタリー・タッチで描いている。劇中の登場人物でもある実在した人物、ミクロシュ・ニスリ医師による手記『アウシュビッツ・ある医者の目撃談』を元に、ネルソン監督がまず舞台化(1996年)し、ハーヴェイ・カイテル制作総指揮で映像化されたのが本作である。ハーヴェイ・カイテル自ら、ナチスのSS軍曹という悪役で名演を見せており、制作者達の本気が生々しくひしひしと伝わってくる。
  舞台劇をそのまま映像化したような演出は、時に劇映画としてのぎこちなさを感じさせもするが(低予算も関係しているのだろう)、冷徹に描写されたこの圧倒的な歴史的事実の前で、もはや「映画論」は不毛だ。「記憶」を映写幕に定着させること。戦争という阿鼻叫喚の地獄図に感傷の入り込む余地はないのだ。

  舞台は1944年、ポーランドのアウシュビッツ強制収容所。ナチスは、「ゾンダーコマンド」と名付けられた、ユダヤ人による特別任務班を組織し、囚人をガス室に送ったり、その死体を焼却したりする死体処理作業をユダヤ人同胞にやらせていた。死体から金目になる金歯や、毛髪を刈り取るような役目は、ユダヤ人自らの仕事だったのだ。その報酬は、食事などの特別待遇と四ヶ月の延命である。
  1944年秋、ソ連のポーランド進攻によりドイツの敗色が濃厚となる中、ゾンダーコマンドであるホフマン(デイビッド・アークエット)らユダヤ系ハンガリー人は、軍事工場で働かされている女性囚人ら仲間と、極秘裏に火薬を集め、暴動の計画を立てていた。連日、夥しい同胞の死体を焼き続ける巨人な焼却炉。遅かれ早かれ殺される運命にある自分達の最後の抵抗を、その焼却炉爆破に賭けたのであった。勿論、生きる為の闘いではない。自らの死に意味を持たせる為の壮絶な決意なのである。
  不穏な動きを察したムスフェルドSS軍曹(ハーヴェイ・カイテル)は、ユダヤ人医師ニスリ(アラン・コーデュナー)に情報の提供を要求する。そう、ニスリもまた妻子の命と引き換えに、同胞の人体実験に従事させられていたユダヤ人であった。
  ある日、いつものようにガス室から死体を運び出していたホフマンは、なんと死体の山から奇跡的に生き残った少女を発見する。逡巡しながらも、少女を匿おうとするゾンダーコマンド達や医師ニスリ。日々絶望の中を生きる彼らユダヤ人にとって、蘇生する少女の存在は地獄の中の「希望」そのものであった。
  敢行される蜂起。爆破される焼却炉。
  しかし蜂起鎮圧後、ゾンダーコマンドら二百人以上のユダヤ人は銃殺され、少女も虫けらのように射殺されるのであった。
  死体処理作業を黙々と続けるゾンダーコマンドの姿に、焼却炉の通奏低音が重なる。そして、死んだ少女の独白だ。「焼却炉の半分が暴動で壊れて、私は残った炉に入った。私はすぐ焼けてしまった。私の体は、濃い煙となって立ちのぼり、みんなの煙と混ざり合った。焼け残った骨は灰になり、灰は掃き出され川に運ばれる。そして最後に、わずかな私達の灰が次のグループのもとに残り、空中に漂う。灰色のチリとなって。私達は彼らの靴や顔に付く。肺の中にも。彼らはすぐに慣れる。咳をしなくなるし、私達を拭いもしない。この時の彼らは動くだけ。ただ息をして動く。ここで生きている人達はみんな、そう。こうして、作業は続いてゆく……」

  ただひたすら冷徹に展開する地獄絵図。断末魔の悲鳴。観る者は、この正視に堪えない、感傷を一切排した筆致に慄然とする他ない。そして、本作を観ることによる「体験」が、一人一人の生きる個人、人間の尊厳を再び浮き上がらせるのだ。我々が知るべきなのは、収斂された「歴史」ではなく、一人一人の「物語」なのである。
  「9・11」以降、再び戦争の時代を生きる中で、人々は複雑に絡み合う利権や軍事均衡の話に終始しがちであるが、しかし、ことは明白である。当節のイラク、パレスチナに於いても、そこには悪逆非道な「侵略する側」「殺す側」がいるのだ。自衛の為に「抵抗する側」「殺される側」がいるのである。
  このグローバリズムの時代にあって、依然、人類世界の有り様は余りにも階級的だ。マスコミ報道に於いても、生命の価格に開きがあり過ぎる。戦火のかなたには、個人が、我々自身がいるのだ。
  イラクに、パレスチナに、思いを馳せよう。テロ国家、アメリカ、イスラエルの横暴を決して許してはならない。