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ドイツ零年
  (1948年 イタリア)
  監督: ロベルト・ロッセリーニ
  原題: GERMANIA ANNO ZERO(GERMANY、 YEAR ZERO)
  主要舞台: ドイツ
    発売元: アイ・ヴィ・シー
販売元: アイ・ヴィ・シー
商品番号:IVCF-2156
定価:¥3,800(税抜)/¥3,990(税込)

  ロッセリーニ「戦争三部作」の第三弾。
  前二作(『無防備都市』『戦火のかなた』)でイタリアの対独レジスタンスを描いたロッセリーニが次なる舞台に選んだのは、敗戦直後、物心共に廃虚と化した、ドイツの帝都ベルリンであった。
  崩壊したまま手付かずのビル、至る所に山積する瓦礫、荒廃したままの人心、もはや失墜した道徳律。かつて栄華を誇ったベルリンは見る影もない。
  「ベルリンの街で撮影している間に、私は人々の無関心さに衝撃を受けました。ニューヨークでも、ロンドンでも、パリでも、ローマでも、カメラと撮影隊は、人々にとって抵抗しがたい魅力溢れるものです。ベルリンでは、人々が一つのことだけ、つまり食べて生き延びることだけに関心があるように思われました。これは、全ての人々の良心を押し潰した、歴史上例を見ない敗北の結果だと考えます。(中略)『ドイツ零年』を作るにあたっての私の意図は、私の全ての作品と同じでした。愛することの出来る心と、考えることの出来る頭脳を持った世界中の観客の為に、カメラが捉えたままの正確な真実を再現したかったのです」(ロッセリーニ)

  主人公エドムントは十二歳の少年。重病の老父、隠遁を余儀なくされた元ナチの兄、花街の煙草売りで泡銭を稼ぐ姉との、三人分のなけなしの配給ではやっていけない窮乏生活を、何とかしようとするエドムントであった。
  アパートの家主は冷酷に「病人や妊婦は傍迷惑だ。病人は早く死ねばいい」と言い放ち、かつての担任教師は、同性愛者の将軍に少年達を斡旋しながら生き長らえ、行き場を失い助けを乞うエドムントに「弱者は強者に滅ぼされる。生き延びる為には弱者を犠牲にする勇者が必要だ」と言い放つ。ナチス・イデオロギーを支えた大人達の哀れな末路だ。
  職を探せず、路頭に迷い、精神的にも追い込まれたエドムントは、戦中同様に教師の言葉を信じ、毒入り紅茶によって父親を毒殺する。大人達の価値観を絶望的なまでに浴び続けた結果の悲劇であった。
  父の死後、廃虚のベルリンを夜通し彷徨するエドムント。瓦礫と化した大噴水の側で一人石蹴りをするエドムント。何処からともなく聞こえて来るオルガンの音を背に、空き地のサッカーを見つめるエドムント。そこに佇むのは、何処にでもいるただの子供のエドムントである。圧倒的孤独と空虚が映写幕を支配する悲しいシークェンスだ。
  そして、廃ビルの高みから、父の遺体を乗せた車と悲しみに暮れる兄姉を見送ったエドムントは、遂にその身を投げてしまうのであった。

  自殺の寸前までサッカーをしたがった、そんな何処にでもいる一人の少年を、死に追いやったものは一体何なのか。
  ロッセリーニは語る。「飢えの問題を解決する為に、この少年は、役立たずになった父親を殺し、少なくとも戦ってきた兄の生命を救うことが当たり前で、むしろ英雄的であると考えます。この少年は、自分の周囲に何の支えも見い出せません。誰もが彼に敵対します。彼が自分のしたことを告白しようとした時でさえ、彼は誇りをもって話すのです。なぜならば、彼は模範的なドイツ人のように振舞うからです」
  大人の「観客」にとっては余りに絶望的なストーリーではあるが、むしろそうであるが故に、ロッセリーニの優しい視線は子供達に、「世界中のエドムント達」に、希望の光を投げかけているのだ。
  子供達よ、殺されるな。生き延びろ。

  「私自身の作品にも、意識的に、単純率直にただ一人の人物を記録的に追っているものがあるけれども、その方法を私はロッセリーニから学んだのである。ジャン・ヴィゴをのぞけば、子供の世界を、センチメンタルな優しさや、涙なしに描くことの出来る映画作家はロッセリーニだけである。私の『大人は判ってくれない』はロッセリーニの『ドイツ零年』に負うところが大きい」(フランソワ・トリュフォー)