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スモーク
  (1995年 アメリカ=日本)
  監督: ウェイン・ワン
  原題: SMOKE
  主要舞台: アメリカ
    発売元:ポニーキャニオン
品番:PCBP-50513/¥3,800(税抜)

  世界中の大都市をグローバリズムの津波が容赦なく襲い掛かる当節にあって、そこに住む人々の暮らし様がマルチ・カルチャーなものであるのか否かは、常にマイノリティの側にとって重い命題としてあるし、ことはマジョリティの側の精神の有り様にも深い影を落としている(「9・11」以降の相互不信はどうだ。日本なら「オウム」以降だ)。東京であれ、パリであれ、ロンドンであれ、否、そういった風な、如何にもな大都市に限らない世界的急展開にこそグローバリゼーションの無気味な浸透力をみるのだが、人種であれ、民族であれ、各々が区分けされた中だけで「純粋性」を保つことが、如何に、管理統率する側にとって至便なのかは、ここで実際の事例にあたるまでもないだろう。「色んなやつがおってエエやないか」と言いながら、そこが管理されたモザイク状の「一区画」に過ぎなかったりするのが、現代の都市生活であるのだから。国家行政の広報ですら「共生」を謳うが。
  人種の坩堝、ニューヨーク。そしてそこも、混ざらずに異化し合う、モザイクの街である。本作『スモーク』は、ニューヨークを舞台に、そんな硬直した「人の間」のコリをマッサージしてゆくような、社交の意味を問う素敵な物語である。

  1990年、ブルックリンの辻に、数多の人生が交差する一軒の煙草屋がある。店主オーギー・レン(ハーヴェイ・カイテル)は気のいい不良中年。その人柄は常に常連客を店内に居着かせるのであった。
  数年前、最愛の妻を銀行強盗の流れ弾で亡くして以来「書けない」作家のポール・ベンジャミン(ウィリアム・ハート)も、そんな常連客の内の一人だ。ある日、トラックに轢かれそうなポールを間一髪のところで助けたのはラシード・コール(ハロルド・ペリノー)という黒人青年であった。
  物語は、シークェンスを変えながら、この三人の男を中心に展開する。
  オーギーは毎朝同時刻、同角度で、煙草屋の前の交差点を撮影し続けている。彼は「俺の街角の記録だ」とポールにアルバムを見せる。四千枚もの同じような写真。オーギーは言う。「ゆっくり見なきゃダメだ。同じようで一枚一枚全部違う。良く晴れた朝、曇った朝。夏の日差し、秋の日差し。ウィーク・デー、週末。厚いコートの季節、Tシャツと短パンの季節。同じ顔、違った顔。新しい顔が常連になり、古い顔が消えてゆく。地球は太陽を回り、太陽光線は毎日違う角度で差す。明日、明日、明日。時は同じペースで流れる」
  ラシードと、十二年前に生き別れた父サイラス(フォレスト・ウィテカー)との再会。
  オーギーと、彼を十八年半前に裏切った女ルビー(ストッカード・チャニング)との再会。
  飛び交う嘘、入り組み合う人間模様。挿入される数々の逸話のどれもがユーモアと人間味に溢れていて、目が離せない面白さなのだ。
  ポールがラシードに語る逸話。「それは1942年の攻囲下のレニングラード。人類の最も悲惨な歴史の一つだ。そこで五十万の人間が死んだ。作家バフチンも自分の家で死を覚悟してた。だがタバコを巻く紙がなくて、十年かかって書いた原稿の紙を引きちぎり、それでタバコを巻いた。写しなどない原稿だ。死ぬ時に大事なのは本か一服のタバコか。彼はタバコを選び、自分の本を全部吸っちまった」
  サイラスのガス・ステーションにオーギーとポールがやって来るシークェンスがいい。この時初めてサイラスは、雇っているラシードが実の息子であることを知るのだが、初めての親子喧嘩の後、予定通り行われたピクニックに予想外の客二人を交えて、流れる微妙な空気が可笑しい。親子は無言のまま見つめ合うのであった。
  そして、本作中最も重要な最後の挿話、『スモーク』のモチーフになった、小説家ポール・オースターの短編『オーギー・レンのクリスマス・ストーリー』のシークェンス。
  ポールに『ニューヨーク・タイムズ』から、クリスマスにまつわる短編の原稿依頼が来る。アイデアが浮かばないポールに、オーギーはクリスマスのいい実話があると告げる。昼飯代と交換条件にオーギーは語る(長いが、ここに圧倒的台詞の全文を引こう)。
  「あのカメラの話だ。今のヴィニーの店に雇われた76年の夏だ。建国200年の年だ。ある朝、ガキが万引きをしてた。雑誌棚のポルノ雑誌をシャツの下に隠した。それに気付いて俺が大声をあげると、店を飛び出して、俺がカウンターを出る頃には表の7番街。半ブロック程追ったが、その時、奴が何かを落とした。息も切れかけたので俺は止まって見た。そいつの財布だった。金はなかったが、運転免許証と三、四枚のスナップ写真。免許証の住所でその気ならサツに訴えられた。だが可哀想でね。その辺のガキで、財布にあった写真を見ると、なぜか怒りが消えちまった。ロジャー・グッドウィン。それが名前さ。写真の一枚は隣に母親がいた。もう一枚は、賞状を胸に抱いていて、宝クジを当てたような嬉しそうな笑顔。ほだされた。一生恵まれないブルックリンのガキ。ポルノ雑誌の一冊や二冊が何だ。俺はそのまま財布を持ってた。送り返そうかとも思ったが、何となくそのままにしてた。その年のクリスマス。俺は独りぼっち。ヴィニーの家に招かれてたが、奴のお袋が急病になった。俺は独り寂しくアパートでポツンとしてた。その時、棚にあった財布が眼に入った。たまにはいいことをしようと返しに行くことにした。住所はボエレム・ヒル辺りの団地。ヤケに寒い日で、建物を探すのに何度も迷った。団地は似た建物ばかりで同じ所をグルグル。やっと目指すアパートを見つけてベルを押した。返事がない。留守かと思った。ダメ押しでもう一度。あきらめて帰ろうとした時、足を引きずる音がして老婆の声が尋ねた。“どなた?”“ロジャーはいますか?”“ロジャーなの?”と言って、老婆は十五個程の錠を開けた。八十か九十歳に近いばあさまだった。そしてすぐ分かったが、盲目だった。“来てくれたのね、ロジャー。今日はクリスマスだから”。そして俺を抱こうと腕を広げた。とっさに何か返事をせにゃならない。考える前に言葉が口から出ちまった。“そうだよ、おばあちゃん。クリスマスだから会いに来た”。何故言ったのか、自然に言葉が出ちまった。気が付くとドアの所で抱き合ってた。暗黙の内にゲームをすることを決めてた。ルールを決めずにね。俺は孫なんかじゃない。彼女は老いてボケかけてたが、他人か孫かはちゃんと分かる。ふりをして喜んでた。俺も成り行きでうまく調子を合わせた。そして、その一日を彼女と過ごし、口から出任せの嘘をついた。“いいタバコ店に勤めてて、じき結婚する”とか何とか。彼女は信じるふりをした。笑ってうなずいて“よかったわね。そうなると思ってたよ”。その内、腹がへった。何もなかったので近所の店へ出かけてって、色々買い込んだ。ローストチキン、野菜スープ、ポテトサラダ、その他色々。ばあさまは寝室にワインを隠してた。結構豪勢なクリスマス・ディナーになった。ワインでお互いいい気分。食事が済んだあと、居間へ移った。イスがマシだったのでね。小便をしたくなっておれはトイレを借りた。ここで話は意外な展開になる。孫のふりをしたのも大胆だが、それからしたことはもっとバカげてた。今でも自分を許せない。トイレに入ると、シャワーの仕切り壁の所に、箱に入ったカメラが    六、七個。まっさらの35ミリ・カメラだ。箱に入ったまま。それまでカメラには無縁。物を盗んだこともない。だがそこに積んであるカメラを見たら、一台頂こうという気になった。とっさにね。よく考えもせず一箱取って腕で隠し、元の居間に戻った。その間たった三分。だがばあさまは居眠りを始めてた。ワインのせいだ。おれが皿を洗う間も、彼女はスヤスヤと眠ってた。起こすこともなかったので、帰ることにした。盲人だからメモを書いてもムダだ。黙って出てった。孫の財布をテーブルに置いて、カメラを持ってね。アパートを出た。それがおれの話だ」
  流れるはトム・ウェイツの <Innocent When You Dream>。観る者の胸を打つ、圧倒的な幕切れだ。

  虚言と本音、ユーモアと人情が絡み合い、割り切れないからこその人生、ペーソスの通奏低音は、人間讃歌を高らかに響かせるのだ。そして、各々の人種、民族が独自形成するコミュニティの壁に風穴を開けるのが、単なる何処にでもある、街の煙草屋であったりすることを、本作はたおやかに宣言するのだ。
  一人一人の物語としての新たな『スモーク』は、世界中で、人間の数だけ書かれなければならないし、「我こそが物語の主人公である」というような生き方が、決して独善的なものとして単独にあるのではなく、人間の数だけ無数にあることを認め合うような、そんな世界の有り様に思いを馳せてみたい。
  依然「解決」の鍵は「思いやり」が握っているのだ。